第3話 電話


 店内に誰もいなくなったことを確認すると、ポケットから携帯電話を取り出し、メモリーから電話番号を呼び出した。


「はい、飯島興業」

 威勢のいい若い男の声が受話口から飛び出してきた。


「南雲だけど、加納さんはいるかな」

「あ、南雲さんですか、ご苦労様です。いま副社長と代わりますんで少々お待ちください」


 飯島興業というのは、死んだ飯島が組長をしている暴力団組織、飯島組の別名であった。

 表向きは一応きちんとした会社を装っており、飯島興業では組長である飯島の事を社長と呼び、若頭である加納のことを副社長と呼んでいる。


 保留音である『エリーゼのために』が中途半端なところで途切れると、低く篭ったような男の声が聞こえてきた。


「どうした、南雲。お前から連絡してくるなんて、珍しいじゃねえか。今日は社長と一緒だったんじゃねえのか」

「問題が起きた」

「どういうことだ?」

 俺の声を聞いただけで、加納は事態を悟ったのか声に緊張を帯びはじめていた。


「飯島さんがられたよ」

「なんだとっ!」

 加納が突然大声を出したため、耳が一瞬聞こえなくなった。


 とりあえず加納が冷静になるまでは、言葉を受話口へ送り込むのを止めておいた。

 いま、加納に何を言っても、俺の言葉は加納には届かないと思ったからだ。


「場所は、場所はどこだ?」

 ようやく冷静になった加納が言った。


「銀座にある雅寿司だ。そこで二人組の男に襲われた。俺はちょうど車を置きにいていたせいで、襲撃には遭遇しなかった」

「わかった、雅寿司だな。すぐに組の人間を向かわせる」


「警察の方はどうする?」

「通報したのか?」

「いや、まだしていない」


「じゃあ、こっちでやっておくから、お前はどこかに身を隠せ」

 加納の口から出てきた言葉は、俺にとって予想外な言葉だった。

 なぜ、俺が身を隠さなければいけないのだろうか。俺の中で疑念が生まれていた。


「どういうことだ?」

「お前は相手の姿を見ている。相手はお前の事も消しに掛かるはずだ。こっちとしては、犯人の顔を見ているお前だけが頼りなんだ。だからお前は身を隠せ。どこか知り合いのところにでも隠れていろ、わかったな」

 俺は相手に顔を見られてはいない。

 そう言おうと思った時には、既に電話は切れていた。


 取り合えず、俺はこの場から姿を消さなければならなかった。

 俺はこの場にいなかったことにしておかなければならない。


 カウンターの脇に置いてあった真新しい手拭いを手に取ると、自分の手が触れたと思われる位置を丁寧に拭き取った。

 気休め程度にしかならないかもしれないが、指紋を残してこの場を去るのはどうしても気が引けた。

 カウンターテーブルなどを丁寧に拭き、その手拭は流し台に置いてあった、水の張った桶の中へと放り込んだ。


 俺は飯島に最後の挨拶を済ませると、雅寿司を出て、街へ溶け込んだ。

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