第17話 hunting 2
彼女は自分が重大な間違いを犯していることに気づいた。
「んっ!? あなた……誰?」
少女が追っていたのは樹豹ではなかった。
その生き物の体毛は尻尾に向かって剣山のように鋭く突き出ており、覆い被さるだけで獲物の動きを封じることができそうだった。頭部も鼻先から耳にかけて細く長く伸びていて、獲物の腹に頭を突っ込んで内側から食い破るのに適していた。前足は指が人間のように長く伸びて、さらにその先には鈍く光る爪が伸びている。
そして少女は気がついた。
その爪には、先ほど彼女が花をたむけたウサギの体毛と血がこびりついている。しかし大きく開かれたたくましい牙がのぞく口元は綺麗で、血の一滴も付いてはいなかった。
聞いたことがある。
草食動物を皆殺しにし、飢えて死んだ肉食獣の死肉を喰らう呪われた種族。
彼女の故郷の街を襲って多くの犠牲者を出し、数えきれないほどの孤児を生み出した憎き野獣。
彼女がまとっていた気配が一瞬で変わった。
抑えきれない怒りが食いしばった歯の間から唸り声となって漏れると同時に、喉から何かが首の皮膚を突き破って飛び出してきそうな鋭い痛みが彼女を締め付ける。
「グッ、グ……」
痛みで自由を奪われた彼女はバランスを崩して霧の中へと落ち沈んだように見えた。
霧はその腕をさらに伸ばして森の低木を覆い隠し、背の高い木は雲の上に頭を伸ばした摩天楼のように伸びていた。
雲の海の下では、小さな動物たちが騒ぎを聞きつけて警戒音を発し、霧に身を隠しながら自分たちの巣に戻ると周囲は静まり返った。
野獣は背後の敵の気配が消えたことを確認しようと足を止める。
魔女の仕業と噂されるこの霧は不気味に音を吸収し、森の生命が全て死に絶えたような静寂をもたらす。
一度この霧に飲まれた人間は、その不気味な静寂がもたらす恐怖を心の奥に刻み込まれて、こう人に語り伝えた。魔女の吐息は死を運んでくる、と。
魔女の海に沈んだ少女は苦しげにうめいていた。
見えないイバラに全身を締め付けられているように。
少女が痛みに耐えながら起き上がる。目には涙が溢れていた。
「どう、して……」
弓を構えて狙いを定める。まるで霧の闇の中でも獲物が見えているように。
少女の放った矢が静寂を破った。
霧の中から音もなく飛び出した矢は、霧の尾を引いてまっすぐに野獣に向かって飛んでいく。
しかし矢は命中することなく近くの木の幹に突き刺さった。野獣は矢が飛んできた方向に怒りの唸り声を上げて再び逃走をはじめた。
同時に少女が霧の中から飛び出す。
獣を追い立てる少女の姿は霧の中から現れては消え、飛び出すごとに霧の尾を引いて跳躍する。
少女にとっては霧の中に入るたびに水中に飛び込んだように音が消える中での追跡は障害が大きいはずだが、少女は一定の距離を保って野獣を追い続けた。そればかりか左右に動きながら追い立てることで一定の方向へと追い詰めていく。
突然、霧が晴れた。
と同時に森の開けた部分に追うものと追われるものの二つの影が飛び出す。
少女はこの機会を狙い澄ましたように体を大きく回転させ野獣に狙いを定めて弓を引いた。
野獣はここで初めて目に恐怖を浮かべて彼女を見た。
その矢が獣に向かって放たれるかと思ったその瞬間、次の足場となる枝に小さな動物の気配を感じた。
その小動物は凄まじい殺気を持った獣が二体も霧の中から飛び出し、しかもその一体が自分に向かって飛んでくるのを恐怖とともに見つめた。逃げ出すことも忘れ、ただ身を縮めている。
「ちょっ!」
声を上げたと同時に身にまとっていた殺気が消えた。
少女は衝突を避けようとした瞬間にバランスを崩し、騒々しい音と小さな悲鳴をあげながら茂みに落下していく。枝が一本折れる音がするたびに、少女の悲鳴があどけなさを帯びていった。
「くっ、う、あ、ひゃんっ!」
野獣は森の奥へと姿を消してしまった。
少女は地面の上で仰向けになり、しばらく空を見つめて動かなかった。
絡み付いた細かい枝をはらいながら立ち上がる。呼吸を整えるため深呼吸すると、胸のベルトがずれていることに気づいた。
胸の膨らみが邪魔なものでもあるかのように、外側に寄せてベルトのずれを直す。
少女が着地しようとしていた枝にいたハネリスが、彼女と目が合うとぴょんと飛び上がって姿を消した。
大きなため息。
少女は誰も見ていないことを確かめるように、ほんの少し赤く染まった顔でキョロキョロと周囲を見回した。
狩の失敗を恥じたのか。
それとも『ひゃんっ』などと変な声を出した自分に驚いたのか。
そして息を整えながら、ゆっくりと矢と弓をホルスターに戻した。
「ごめんなさい、お父様」
そう呟いて、少女は怒りに我を忘れたことを反省するように目を閉じた。
そして狩りの途中に一瞬目にした男の顔を思い出す。
「やっぱりあれは……ん!?」
見逃すところだった。彼女の
少女は少しとがった耳をピクリと震わせ、森の呼吸に耳を澄ませる。
ざわざわとした木の葉の擦れ合う音、森に住む動物たちの息遣い。
そのひとつひとつが起こす空気の振動が、森と一体となった少女の全身に何かを伝える。
目を閉じて、感じた気配をさらに
(足音、風になびく布、重い得物。気配は、殺気!?)
「何か来る」
少女は見開いた目で気配の方向に視線を向ける。手が地につくほど姿勢を低くしたと思うと、地面を蹴って飛び出した。
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