第2章
第16話 hunting 1
無残に殺された小動物の死体。
その横には、一輪の花が添えられている。
少女はその傍らで握ったこぶしを胸に当て、まるで復讐を誓う戦士のように立っていた。
ウサギさん動かなーい――
人の気配のない森の中で、幼い女の子の声に似た音が風に運ばれて流れてきた。
少女はとがった耳をピクリと震わせ、その声を聞いた。
無人の森の中でそんな声を聞けば、人は幻聴か幽霊の存在を疑うが、彼女はまるで気にする様子もなくそれを聞き流した。
彼女の容姿を一言で表現すれば、森で花摘みをしている少女。少しとがった耳をどう解釈するかにもよるが、人間の感覚で言えば十五歳ぐらいに見える。
腕に下げたバスケットや白いワンピース。華奢な体には少し大袈裟に見えるブーツを履いていた。
貝殻の真珠層のように不思議な光沢を持つ白い肌をワンピースの裾からのぞかせて、先端にいくほど白くなった
森の木々の間を風が吹き抜けた。
木漏れ日が少女の目に差し掛かると、眩しそうに目を細めて立ち上がった。風が彼女の髪やワンピースをなびかせ、ミラーボールのようにうごめく木漏れ日が彼女に降り注ぐ。
彼女はこの森の住民である。
風に揺れる色とりどりの葉。パステルカラーの色標本のような森。
そこに住む森の仲間たちは実に色彩豊かな毛並みを持ち、それが保護色にもなっていた。
そんな場所において、彼女は異質なほど白く透き通った存在だが、意外にも森の仲間達には歓迎されていた。
太古の昔は空を自由に飛び回っていたと言われている退化した羽を持つリス、ハネリスや、被膜を持ち木々の間を飛び回るウサギ、ウササギなど、この森はそうした独特の進化を遂げた小さな動物の楽園である。最近まで、天敵となる肉食獣がいなかったことも彼女への警戒心が低い理由の一つかもしれない。
彼女がゆっくりと歩き始めた。
森の仲間たちは、彼女がほんの数メートルの距離に近づいても、逃げることなく様子を眺めていた。
風上からの新たな血の匂いに気づいた彼女が歩みを止めてしゃがんだところで、ちょうど木の実を頬袋に詰め込んでいるハネリスと目があった。
「あなたが昔は空を飛んでいたなんてちょっと信じられないけど」
ハネリスは差し伸べられた彼女の手のひらに乗って、退化して小さくなった羽を誇らしげに動かした。
「今は飛んでいたころを思い出して、急いで逃げた方がいいわ」
少女がハネリスを背後の枝に乗り移らせ、再び前を向いた時には顔つきが変わっていた。
素早くバスケットを覆っていた白い布を取り去ると、真剣な表情で中に入っていた弓と矢、ナイフ、それらを体に固定するベルト一式を確認する。
この森特有の夕方の霧が、風の道の先から静かに近づいてくる。
この霧は魔女の吐息と呼ばれている。夕刻に森の奥地から流れてきて気まぐれに森の一部を漂った後、ほんの数分で風の道を戻って消えていく。その様子が魔女の吐息のようだと昔の旅人が名付けたらしい。
そんな昔の言い伝えを迷信だと切り捨てることもできるが、森の動物にとっては文字通り恐怖の対象だった。その霧が敵の存在を隠し、仲間同士の警戒信号のやりとりを妨げるからだ。
その霧が少女の足元に流れ込む。
彼女はゆっくりと片足を一歩引き、その場にしゃがみ込んだ。
手にしていたカゴを握りしめて、鋭い視線を前方に向ける。
両手を地面に交互について、ゆったりとした動作で地面を這って姿勢を低く伸ばす。ネコ科の肉食獣が、身をひそめながら獲物に近づくような姿だ。
彼女は手のひらから指先へと静かに地面に手を当て、気配の正体をたぐり寄せる。顔を上げて、後頭部と耳を霧の上に出して耳をすました。
獣の足が地面を叩く音。
足裏の毛が長くて固い。
少女の少し尖った耳がぴくりと動いた。
「
それは、主に木の上で活動する豹で、肉食の獣だ。
商人によって遠くの土地から持ち込まれものが逃げ出し、この森に住み着いた外来種である。環境に適応して数を増やしたため、今では森の生態系を脅かす存在となっている。
カゴから弓と矢、そして小さな投げ矢がセットされたホルスターを取り出す。それを素早く肩にかけ、胸の膨らみの間を交差するように縛って体に固定する。ワンピースの裾が太ももの上まで上がり、ピッタリと体に密着した黒いタイツが露わになった。手慣れた手つきでナイフを腰のベルトに固定すると、彼女は花摘みの可憐な少女から獲物を狙う狩人に姿を変えた。
「動かない、か」
樹豹が獲物を奪い合ったり縄張り争いをするような大型の肉食獣は、この森にはいない。にもかかわらず、相手は警戒を緩めていなかった。じっと木の上で動かず、気配を殺していた。
「獲物を見つけたのね」
少女は斜めに伸びた木の幹をネコ科動物のような器用さで登ると、標的がいると思われる方向に弓を構える。
弓と矢は彼女のスタイルに合わせた特別製だ。
中央付近の金属製の装飾は重心を安定させる以外に役割がありそうだった。
全長は一般的なものより少し短く、その分遠距離での命中率が低い。麻酔薬の塗ってある矢を命中させるには獲物に接近しなければならない。
「ごめんね、私あなたを捕まえなくちゃいけない」
樹豹はしなやかな体と長い尻尾、そして強靭な脚力を持っている。曲芸師のように空中での姿勢を自由自在に変えて、木から木へと間を置かず飛び移る。彼らが逃走を始めたら、並のハンターなら目で追うことすら困難である。
少女もそのことは承知していたから、待ち伏せに徹し、用心深く気配を探っていた。
少女の嗅覚が樹豹の近くにいるハネリスの気配を見つけた。彼に警戒の色はなく、敵の気配に気付いている様子はない。
先ほど少女が声をかけたのとは別のハネリス達だ。
彼らは収穫した木の実をせっせと巣に運んでいる最中で、敵の接近に気付いていなかった。
「くっ」
少女は悔しそうに下唇を噛んだ。
「またあの子たち、もう……」
少女は待ち伏せを諦めて矢と弓を背中のホルスターにしまい、姿勢を少し落としたかと思うと真っ直ぐに足を伸ばして跳躍した。
少女の気配に気づいた樹豹は、木の上で一瞬動きを止めた。別のハンターが真っ直ぐ自分に向かってくることを確信すると、先ほどまでの静かな跳躍とは打って変わって、力強い跳躍で逃走を開始した。
しかし少女は諦めていなかった。
少女は人間とは思えない身体能力で、枝から枝へと飛び移る。
速度が上がってくると、今度は木の枝で一旦停止することなく、枝や幹を直接蹴って森の奥へと逃走する樹豹を追い立てる。まるで水切りで、水面を石が跳ねる姿に似ていた。
手や足だけではなく、全身を使った跳躍と体の回転で複雑に交差する足場を見事にとらえ、人の目では追うのも難しいほどの加速で前を行く樹豹にあっという間に追いつく。
一瞬、大きな音が響いた。
この森では聞いたことがないような、重い石を引きずるような音だ。
そして少女は自分のすぐ真横に人の気配を感じた。手を伸ばせば触れられる距離に、その男はいた。
この森で自分のスピードに追いつける人間がいるはずがないのだが、その男は自分と同等の速度で跳んでいる。
相手の男も少女の存在に気づいて目を丸くしているようだ。その瞳に自分の顔が映り込んでいることを認めた瞬間、少女は無意識に彼に手を伸ばしていた。
指先が触れ合ったのとほぼ同時だった。相手の速度が自分よりはるかに遅いことに気づく。少女が前方に視線を移したときにはすでに遅かった。次の跳躍に必要な体勢の変化が間に合わない。
「あっ」
着地しようとした枝を蹴ってやり過ごし、そのまま樹上に密集して寄生するタンポポの胞子群に突っ込む。何千何万にも及ぶ胞子が、花嫁がまとうロングベールのように宙を舞った。
森の木々は教会の高い柱となり、木漏れ日はステンドグラスになった。思いがけず結婚式に参加することになったハネリスやウササギは、天敵を追って飛び去る花嫁を見送った。
「ふふっ」
表情のない少女の顔がふっとゆるみ、ゲストたちにウィンクしたように見えた。しかしそれも一瞬で、次の枝を見つけた少女はすぐに体勢を変えて樹豹の追撃を再開した。
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