第7話 pet shop

 三人の移動先のペットショップは、想像以上の広さだった。

 犬・猫はもちろん、ウサギやハムスターといった小動物、鳥や魚、昆虫、などが数えきれないほどいて、動物病院・ホテル・トリミング施設も完備している。

 休日なので家族連れが多く、目を輝かせてガラスケースの中をのぞき込んでいる子供の数は、そこに展示されている犬・猫より多いくらいだった。


 店内に入葉いりはあかりの姿は見えるが、二人の近くに直哉の姿がない。

 灯は入葉の手を引いて、親子水入らずの時間を楽しんでいるみたいだった。


「はぁ、はぁ……やっと着いた」

 直哉は二人よりだいぶ遅れてペットショップに入った。ドリンクカップのごみ捨て勝負を、挑発的なウィンクひとつで棄権きけんした灯に、入葉の手を引く権利を奪われてしまったからだ。その時の灯の顔は、まるで主人公の目の前でお宝を奪う女怪盗みたいだった。

 百メートルを全力疾走したあとみたいに息が切れているのは、予想外のことに慌てた直哉が見当違いの方向に向かって走り出し、モール内を一周してしまったからである。


「ちっくしょー、フジ子のヤツ」

 自分でも誰だか分からない女の名前を恨めしそうに口にしながら、直哉は灯たちの姿を探した。


 店内のあちこちに視線を泳がせる。

 見つからない。


 二人連れの客にターゲットを絞ってみる。

 年代はまちまちだが、男女のカップルばかりだ。


 動物の入った展示ケースを覗き込む顔を探す。

 子供か、子供のように目を輝かせる大人たちだ。でも入葉の顔はない。

 

 直哉が入り組んだ店内を歩いていると。

「いた」

 すんでのところで見逃すところだった。

 なんのことはない。二人はペットショップ入口に近いドッグランを囲む人たちの中にいた。

「灯のやつ、あんなとこに。あれ、入葉……?」

 入葉のすぐ横で彼女の手を引き、芸をしている犬を指さして笑っている灯には見えていなかったが、二人の姿を離れてみている直哉はすぐに気が付いた。

 入葉の元気がない。

 先ほどまでの楽し気な様子はどこへやら。手足を引っ込めた亀のように自分の殻に閉じこもり、不満を表現していた。

 

 入葉が興味を持った犬たちは、たしかにドッグランの中にいた。広さは屋外のものとは比べるべくもないが、飼い主が愛犬のリードを引いて歩き回るくらいには広さがあった。

 出入口ゲートに貼ってある注意書きには、飼い主以外は入れないとある。

 要するに、動物と自由にふれあえることを期待してやってきたら、自分は入れないと分かってがっかりしたのだろう。動物ふれあいコーナーではないのだから当たり前なのだが、子供返り中の入葉にはすぐには受け入れがたいことだったのだろう。


 そんな入葉に同情しつつも、直哉はそれがふれあいコーナーでなかったことにホッとしていた。

「ふぅー、たすかった」

 長い溜息だった。


「見てみて、あの子。今から跳ぶわよ!」

 入葉の様子に気づいていないのか、灯がジャンプ台を跳ぼうとしているミニチュア・シュナウザーを指さしながら言った。

「ったく」

 洋服の件といい、灯は世話好きなわりに人の機微に疎いところがある。

 典型的な近所のおばちゃんタイプだ。

 そういうがさつなところさえ直してくれれば、スポーツ美少女と持ち上げる奴も出てくるだろう。まあせいぜい町内会レベルの微少女だろうけど。

 ちなみに細やかな配慮ができる主婦は「近所のおばちゃん」などという大雑把な称号で呼ばれたりしない。ちゃんと〇〇さんと名前で呼ばれるのだ。


 灯はかめのようになっている入葉を見て単に飽きたのだと思ったのだろう。水槽の並んだ一角に連れて行った。そして小さい頃はカメをたくさん飼っていて、カメは飼い主の顔を覚えて話しかけると近づいてくるんだという、直哉が子供の頃よく灯に聞かされた話を始めた。

 入葉は水槽のガラスにそっと手を当てると、まるでそのガラスが自分と動物たちのふれ合いをはばむ大きな障害のように絶望的な表情を浮かべた。


 灯は入葉がカメに興味を示さないことがわかると、カメの次に灯が飼っていた熱帯魚のコーナーをさまよい歩き、見覚えのある魚を探し始めた。


「ウサギなら触れるみたいだぞ」


 直哉は灯がその場を離れた隙に入葉の手を引いて、ウサギやモルモットがいるコーナーへと連れて行った。

 犬に触れなかったショックがよほど大きかったのか、それとも狭い水槽の中のカメが自分の絶望を表しているようで悲しくなったのか。自分からまったく動こうとしない入葉をしゃがませて腕を持ち上げる。直哉はその手が硬く握られていることに気づくと、そっと手を開かせてみた。

 しかし直哉が支えていないとその手はすぐに握られてしまう。仕方なく入葉のこぶしを外側から包み込み、指を交互に絡ませるようにして開かせた手を、そっとウサギの背中に乗せた。

 丸々としたぬいぐるみのようなウサギの体は、褐色の毛が覆っていた。

 毛並みにそってゆっくりと撫でさせてやると、入葉の瞳に光が戻り始めた――



「ねっ、大丈夫でしょう? 直哉」

 母が優しく語りかける声が聞こえた気がした。

 子供の頃、犬が苦手な直哉に、母はこうして自分の手を取ってやさしく撫でさせてくれた。

 直哉は今でも犬が苦手なままだが、もし母が子供の時に事故で死んだりしなければ、今頃は犬を怖がらない人間になれていただろうか。



「あったかい」

 入葉がらした声で直哉は我に返った。

 かつての母のように、直哉は自分が入葉の手を導いて心を落ち着かせているのを感じた。

「それにフワフワだ」

 ウサギの体温と、早いリズムで打つ鼓動。

 重ねた手を通じて、彼女の気持ちが伝わってくるようだった。


 ふいに入葉が顔をあげ、子供のようにワクワクとした笑顔を直哉に向けた。


 その笑顔が母の笑顔と重なる。母の死とともに直哉が封印していた自身の感情が手の届くところまで沸き出し、直哉を激しく動揺させた。手と視線の両方から直哉に入力された入葉という電流が、直哉の死んだ感情を蘇生したみたいだった。


 直哉が慌てて手を引っ込めると同時に、大型犬が激しく吠える音が周囲に響いた。

「ガルルル、ワンウォン!」

 入葉の視線が吸い込まれる先を追って、直哉は音のする方を振り返った。商品の展示棚にさえぎられた視界を確保しようと立ち上がるが、今度は人の壁にはばまれて吠えている犬の姿が見えない。


 身もすくむような吠え方だった。

 姿は見えなくても、歯茎はぐききばをむき出しにして、よだれを垂らして相手を威嚇する狂暴な猛獣の姿が頭に浮かぶ。おそらくそれは、古代の人類が危険な肉食獣に襲われた時の、脳に刻まれた恐怖の記憶。従順な犬から、孤高の狼に変身した瞬間だった。

 子供たちが怯えたのはもちろん、大人たちも含めて周囲の空気が一気に変わる。


 吠え続ける犬をなだめようと、飼い主と思われる女性の声が聞こえた。

 最初はやさしい声で、次に叱りつけるような声で犬の名前を呼んだ。アンディだかアンダルシアだか、聞きなれない名前だったので直哉にはその犬の名前を正確に聞き取ることはできなかったが、とにかくその一声によって大型犬が振り上げた怒りの咆哮ほうこうはどこかへ霧散むさんして消えたように見えた。

 犬同士の喧嘩のゆくえを固唾かたずをのんで見守っていた客たちの緊張も、あちこちでれるほっとした笑い声とともに次第に落ち着きを取り戻していった。


「そうだ、灯さんは?」

 灯が見えないことに気づいた入葉が言った。

 子供っぽい表情は消え、普段と変わらない入葉だった。

「灯なら、さっき魚のコーナーで昔馴染むかしなじみのウオ太郎を探してたけど」

「ちょっと見てきます」


 入葉が歩き去る時、入葉の手が直哉の手に触れた。

 直哉はウサギの毛に触れた時の、何とも言えないむずがゆさを思い出して手をこすり合わせる。

 何気なくその手を見ると、かすれた血のあとが一筋、人差し指についていた。


 直哉の後ろで、小さい女の子がやってきてウサギに駆け寄り、おっかなびっくりといった感じでウサギに触れた。


 直哉が水槽を鏡がわりにして鼻血が出ていないか確認しようとしてその場を立ち去った後、女の子が母親に言った。


「ママー。ウサギさん動かなーい」

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