第5話 dressing room 3

「そこにいるんですよね? 直哉さん」

「あ、ああ、いる!」


 入葉いりはの声で我に返り、びくりと体を振るわせた拍子に思いのほか大きな声で返事をしてしまった。

 驚いた入葉が体をびくりとさせる気配が感じられる。


「わるい、驚かせ――」

「ご、ごめんなさい!」


 驚かせてしまったことを謝ろうとした直哉の言葉に重ねるように、入葉の慌てた声が聞こえた。


「今日は無理に付き合わせてしまって」


 どうやら直哉の声は聞こえていなかったようだ。


「ん? ああ、気にすることないさ。無理やり連れてきたのは灯なんだから」

「でも、それで付き合ってもらってるのは、私の、買い物なので……」

「今着てるのだって全部灯の趣味だろ?」

「えっと、でもそれは、私が自分で服を選べないから」

「あいつ、入葉を着せ替え人形みたいにして楽しんでるんだ。入葉に着てもいいとか言って部屋に並べてある服だって、自分の部屋にしまいきれないとか言って、もともと俺んちに置いてあったものなんだぜ。だから、」


 直哉は話しながら、ひどく落ち着かない気分になった。

 入葉をうちに置くことにしたのも、そのために俺が離れのガレージで寝ることになったのも、こうして買い物に付き合わされているのも、全部、灯だ、あいつのせいなのだ。俺は関係ない。俺を巻き込まないでくれ。


「だから、あいつに遠慮することなんかないんだよ。灯が勝手に楽しんでるんだから」


 直哉が話すのをやめると、試着室の中から音が消えた。話すべき何かを考えているようだった。


「あの、どうすれば……私を……家族だっ……て、思ってくれますか?」

「……あ」


 何かとても嫌な気持ちがこみ上げてきて、直哉は血の気が引くのを感じた。


 父が亡くなった日のカフェで、話を聞く気がなかった直哉が忘れていた父の声。その声が今さら頭の中に響いた。


「お前には自分の家族を持って、幸せになってほしい。それだけが、父さんと母さんの望みだ」



「――いかがですか?」


 不意打ちだった。

 試着室の前で言葉を失っている同伴男性客に助けが必要と思ったのか、女性店員が直哉に話しかけた。


「え、なんて……?」

「サイズが合ってないようでしたら、お持ちしますよ」


 身長が150センチぐらいの小柄な女性店員だった。どうやって着たり脱いだりするのか分からないような、ピタリとフィットしたレザーパンツが信じられないほど彼女に似合っている。

 ファッション誌のサンプルのような店員が当たり前のようにいることが、場違いの店にいることを直哉に思い出させた。


「いや、えっと、サイズは大丈夫だって……」


 入葉の言葉をそのまま繰り返す。店員は直哉の緊張をしっかりと読み取りつつも、子犬のような笑顔でささやいた。


「今試着されてるお品、絶対お似合いだと思います。なので是非、お客様から直接彼女さんに伝えてあげてくださいね」

「え、いや別に彼女ってわけじゃ」


 直哉の反論など聞く気がなかったのか、店員は鍛えられた満点の笑顔で軽く会釈してからバックヤードに下がっていった。直哉はただでさえピンと張り詰めた緊張の糸を、張力限界まで引き伸ばしてくれた彼女の背中を恨めしそうに見送った。


 店員の狙いはもちろん直哉の緊張を解くことなどではなかったし、彼女が売上トップの成績で表彰された経験があることなど直哉には思いもよらないことだった。

 店員が去って自分がいつの間にか立ち上がっていたことに気づいた直哉は、妙に年寄りくさいため息をついて試着室前のイスに座りなおした。


「直哉さん?」

「わ! はい!?」


 店員の追い討ちで完全に浮き足立っていた直哉は、せっかく下ろした腰を少し浮かせながら一段高い声で返事をする。


「何の話をされてたんですか?」

「い、いや別に」それだけだとあまりにも不自然なことに気づいて直哉は言葉を続けた。「何かあったら呼んでくれって」


 嘘をついたり何かを誤魔化そうとする時には相手の反応が気になるものだ。直哉も今、分厚い試着室のカーテンを透視せんばかりの注意力で入葉を観察していた。

 その集中力のおかげだろう。直哉は入葉の返事に違和感を見つけた。


「そうですか……」


 孤独、不安。普段は無意識に見せないようにしている感情が、相手が見えない油断から声に出てしまったのではないかと思われた。


「入葉?」


 直哉のつぶやきは開店直後から時間が経過して人の流れの増えたショッピングモールの喧騒に吸い込まれ、打ち消しあった。


 店内で唯一場違いな空気を発生させているせいなのか、フードで顔を隠した客が直哉を盗み見て通りすぎた。


「入葉? 大丈夫か?」

「は、はい」

 

 消え入るような小さな声を聞き漏らすまいと、直哉は無意識に試着室のカーテンに身を寄せた。


「あ、あの! 私、直哉さんに……」

 予想外の大きな入葉の声が直哉を驚かせる。

「え?」

「い、いえ。ごめんなさい」

 いつもの消え入るような声。まるで音量調節の壊れたスピーカーのようだ。「この服、おかしくないか見てもらっていいですか?」


 見るって、着替え終わったのか?

 っていうか、服なんて俺が見ても……。

 直哉が答えに困っていると、カーテンの端をつまむ入葉の指が見えた。


 開かれたカーテンの前で、直哉は言葉を失って立ち尽くした。

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