第2話 cafe 2
父が大声で叫んだあとの店内。
そこに残された空気の中、一人残される恥ずかしさ。
直哉は両手で顔を覆い、心の中で叫んだ。
(なんて迷惑なやつだ。人を呼びつけておいて、話の途中で出て行っちまうとか。しかも話の内容を大声で叫びやがって。なんなんだよ、まったく!)
恥ずかしさを心の叫びで追い出し、そっと手をおろして周囲を見る。
遠くの女性客二人が口を押えて笑い合っているのが気になったが、他には誰もこちらに注意を向けている様子はなかった。
ほっとしてメニューを手に取る。
認めるのはシャクだが、当店人気ナンバーワン、テレビで紹介などのポップが踊る父が勧めたショートケーキが気になる。
だが今は昼時である。
他に一番気になったのはいかにもボリュームたっぷりなオムライスだった。ふわふわの卵に写真からでも匂いがしそうなソースが渦を巻いて直哉を誘っている。
十一時五十八分――
ふと胸騒ぎがして顔を上げた。
誰かの視線を感じたわけではない。先ほど笑い合っていた女性客二人の席も空いていて、残された食器を店員が片付けていた。誰も直哉を見ていない。
にもかかわらず、直哉は落ち着かなかった。タイムリミットが近づいたクイズの答えを探しているような気分だった。
先ほど、携帯電話の会話に夢中だったスーツを来た女性が、小さな女の子を𠮟りつけていた。どうして電話している間にトイレをすませておかないの、もう出発するんだから、というようなことを言っているようだ。
電話中の母親に断りもなくトイレに行くことなど、あの年頃の子に出来るのだろうか? と考えていると、女の子が立ち上がってトイレのある直哉の方に向かって歩き出した。
十一時五十九分――
女の子はすれ違うとき、直哉と目を合わせた。
その瞬間、カチリと錠が閉まるような音がして、直哉はありえない映像を見た。
母親の怒りに震える表情。
屋外の物置に日が落ちるまで鍵をかけて閉じ込められたこと。
サンドバッグ代わりになって中身が飛び出したぬいぐるみ。
鏡に映った泣きはらした女の子の顔。
痛み、それはまぎれもなく女の子が感じていた痛みだった。
その感覚は直哉を同じ苦しみへ引きずり込もうとする。
女の子から目をそらせば、その痛みから逃れられるかもしれない。
しかし直哉は目が離せなかった。
次の瞬間、まるでスローモーションで次元の穴に落ちるような衝撃が直哉を襲った。
物そのものではなく、それらが反射していた光自体が一点に吸い込まれて、直哉と女の子の間に収束する。
何も見えなくなったと同時に、ドンという衝撃が直哉の体を叩いた。
視界が戻ったとき、直哉は目の前の光景に息をのんだ。
見覚えのある客はみな床に倒れている。カフェの道路に面したガラスは無残に割れていて、破片は倒れた人たちの上に容赦なく降りかかっていた。
さっきまで目の前にいた女の子は床に倒れていて、流れ出る液体で床を鮮やかな朱に染めていた。
直哉は急いで女の子のそばに膝をついた。
体の一部にスマートフォンくらいのガラスの破片が刺さっていた。彼女の小さい体のせいで、その破片が実際よりずっと大きく見える。
今すぐ医師の適切な処置をしなければ致命傷になると、素人の直哉でも分かるほどの大ケガだった。
意識はあったが、そのガラスの破片のせいでピクリとも体を動かせないらしく、細かく息継ぎをしながら、目だけがゆっくりと直哉の方を向いた。
直哉は怖気づいた。
なぜ彼女の第一発見者が自分なのだろう。
彼女よりずっと背が高くて、ずっと長く生きているというのに。自分は女の子に救いの手を差し伸べる力もないのだ。
「い、いま救急車を呼ぶから」
彼女はほっとしたような目を……
いや、その目は絶望に沈んだように見えた。まるで、それまで生きながらえていられないと、自分の死をさとってしまったかのように。
直哉は女の子の手に乗せられたままの携帯電話を手に取って開く。
「!」
画面が真っ暗だった。
ボタンを押しても反応がない。
バッテリー切れか、壊れたのか。
『ほら、やっぱり。わたし死ぬんだわ』
女の子がそう言っているように見えた。
「……そんなの、ダメだ」
店内に他の人の携帯が落ちていないか探す。ガラスの破片の中から赤いカバーのついたスマートフォンを見つけて拾い上げた。
ディスプレイのガラスが割れていたが、触ると画面が表示された。しかし画面に表示されたのは時刻だけだった。
あちこちボタンを押したりして、ようやく緊急発信のボタンが表示された。救急車・救助と書かれた場所をタップする。
「あれ?」
画面が真っ暗になった。耳に当ててみても呼び出し音や相手の声は聞こえない。
何度も画面を指で触るが、もう何も表示されなかった。
視界の端で、女の子が身動きひとつせずこちらを見つめていた。その目は何も期待しておらず、必死になって助けを求めようとする直哉をあざ笑っているようにも見えた。
「なんで? なんで!」
何度も画面を指で突く。
割れたガラスがギシギシとゆがんだ。
そのうち、画面からピンク色の液体が流出する。機械から流れるオイルという名の血液。
機械いじりの好きな近所のおやじさんが、うちのガレージにあったオイルの漏れ出た古いバイクを修理しながら言ってたっけ。
『こいつはもうダメだ……』
「ダメ? 頼むよ、頼む! 助けてくれ!」
直哉はその液体が、傷ついた自分の指から出た血液と流した涙だということに気づかなかった。
自分の無力に絶望して叫びだしそうになったとき、誰かが直哉の肩に手を置いたような気がした。
パーンとシャボン玉がはじけるように景色が戻った。
床には誰も倒れていないし、ガラスも散乱してはいない。
店内は食事や会話を楽しむいつもの風景に戻っていた。
直哉は息苦しさを感じた。
息を吸ったまま呼吸を忘れているのに気づいて、ゆっくりと息を吐き出す。呼吸を取り戻すとともに体が震えてくるのを止めることができなかった。
「なん、なんだ、いったい」
自分がたった今体験したことが信じられない。
白昼夢? それとも何かの病気だろうか。
どちらにせよ、自分が今見たことは幻に違いなかった。
その証拠に、先ほどの少女は母親とともに席に座っていた。
つまり自分は夢をみていたのだ。
気持ちを落ち着けようと外の景色を眺める。
駅周辺、狭く入り組んだ一方通行路の脇にそのカフェはあった。
待ち合わせの社会人の目立つ噴水、威圧感を感じさせない小さな交番が先ほど父が向かった場所だ。
いつの間に降り出したのか、霧のような雨が街を灰色に染めていた。
雑踏の中で、ひときわ目立つ犬を散歩させているドッグトレーナーっぽい女性が、女子高生のグループにつかまって足を止めた。
彼女の困ったような表情に気づかないのか、それとも見るものすべてをとりこにしてしまうようなトリミングを施されたベドリントン・テリアのオーラに魅了されてしまったのか、完全に我を忘れて犬を取り囲んでいる。
ふと、店内の例の女の子と母親の、聞き覚えのある会話が聞こえてきた。
デジャビュ、というやつだろうか。電話している間にトイレに行っておけばよかったのに、という、先ほど聞いたのとまったく同じ会話をしている。
女の子が立ち上がってこちらに歩いてきた。
さっき見た光景とまったく同じだ。
直哉の心臓が高鳴る。
十二時〇〇分――
時計塔の三つの針が重なって正午を告げる鐘が響く。
鐘の音と重なるように、女性の悲鳴のような声が聞こえた気がして外を見ると、交番のあたりで目も眩むような閃光が周囲を暗くした。
同時に半球状の衝撃波が、霧状に雨を吹き飛ばすように広がる。
衝撃波は通行人を押し倒し、自動車のガラスを吹き飛ばしながら一瞬で広がり、直哉のいるカフェのガラスまで迫る。
直哉は考える前に立ち上がっていた。
女の子の体に刺さったガラスの破片。白昼夢で見たその光景を振り切るように、目の前で目を見開いて立ち止まっていた女の子を抱えて跳んだ。
それと同時だった。重い音とともにカフェのガラスが粉々に砕け散って店内の客を襲う。彼女の頭を手でおさえ、ガラスから守るように体をひねった。
大きなガラスの破片が直哉の足を切り付け、奥のイスにあった座面を切り裂いて最後に壁に当たって砕けた。
直哉は女の子の頭を守ったのと引き換えに、自分の頭が守れず、倒れた衝撃で気を失った。
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