スイッチバックウルブズ

悠木音人

第1章

第1話 cafe 1

 十一時五十三分――


「はあ……」


 カフェの窓越しに時計塔の時刻を見つめていた多々城直哉たたしろなおやは、長いため息をこれ見よがしに吐いた。しかし、こんなあからさまに不満を示しているにもかかわらず、目の前の男はまったく意に介さない。


 ホットコーヒーを運んできた若いウェイトレスに礼も言わず、まるでそれが礼を欠いた言い訳とでもいうように、紙ナプキンの上にスプーンを丁寧ていねいに置いている。


 この男のルーティーンだ。

 スティックシュガーのちょうど真ん中を慎重に探り当て、運ばれてきたばかりのコーヒーに砂糖を半分だけ入れようとしている。


 その段階で直哉は我慢できずに口を開いた。


「それで何の用だよ。こんなとこに呼び出して」


 目の前の男は意表をつかれて驚いたのか、半分だけ入れようとしていた砂糖を全部カップの中へと入れてしまう。


 その反応を見て、直哉は苛立ちをはっきりと顔に浮かべた。

 男は直哉の感情を読み取り、慰めるような、やさしい表情で応じる。

 そんな男の顔に見覚えがあった。直哉は男から目を逸らし、唇を強く引き結ぶ。


 直哉の斜め左側の席では、黒いスーツの女性が携帯電話の相手に苛立ちをぶつけていた。彼女の向かいに座っているのは娘だろうか。十歳ぐらいの女の子が退屈そうに窓の外を見つめている。

 女性は娘など目に入らないのか、電話の向こうの相手をやり込めるのに必死だ。


「家じゃこうして向かい合って話すこともできないからな。それに、もうすぐ直哉の誕生日じゃないか。ここはお前の好きなショートケーキがうまいぞ」

「そんなの好きだったのは子供の頃の話だろ!」


 しまった、声が大きかった。

 直哉の声に気づいた携帯電話の女性と目があう。

 そこでようやく、自分が気づかないうちに彼女を睨んでいたことに気づいた。慌てて視線を目の前の男、父、健一郎へと戻す。


 健一郎は居心地悪そうにコーヒーをかき混ぜていたが、大きく息を吸って曲がっていた背中を伸ばすと、再び口を開いた。


「まあケーキはともかく、腹は減ってるだろ? 最後に好きなものでも食べて帰ればいい」


「誰があんたなんかと一緒に……」と言いかけて、目の前にいた少女が振り返って直哉の顔をじっと見つめていることに気づく。「あっ、ま、まあ、腹は減ってるし。ん? 最後?」


「ああ、話したいことも全部伝えたしな」

「は?」直哉の顔が信号機のように赤く染まった。「ならさっきの、俺の見合いだか結婚がどうとかって話をしに?」


「そこまで気の早い話はしておらん。それにお前はまだ……あぁ、別に子供扱いする気はないぞ、直哉はまだ高校生だろう? ただ、お前に紹介したい女の子がいるって話をだな」

「もう卒業だよ。それに、どこの世界に見合い以外で息子に女の子を紹介する父親がいるんだよ」


 直哉の抗議を、健一郎はまったく意に介さず続けた。


「この間うちの若い奴に子供が産まれたんだ。あれは成り行きだったんだが、俺も病院に同行してな。そいつの喜びようを見てえらく感動したもんだ。直哉のお産のときは母さんをひとりにしちまったからなあ」

 健一郎は少しだけ寂しそうな顔をした。


「まあいい。その子供ってのが小さいくせに元気な男の子でな。お前が小さかったころは――」

「ちょっ、何の話だよ。俺はなんで親父が女の紹介をするのかって聞いただけで」

「孫の顔が見たくなった」

「……っはあ!?」

「ワハハ。そんなに照れなくていい」

 健一郎は椅子から腰を浮かせると、直哉の手をしっかりと握りながら言った。


 十一時五十五分――


 親父の手って、こんなだったろうか。乾燥して、ひび割れたような肌。

 直哉には子供のころ、剣道の竹刀を握らせてくれたときぐらいしか父の手に触れた記憶がなかった。


 わが家の庭で父に剣道を教わっていたのは何歳ぐらいのときだったろう。あの頃はまだ母さんが生きていて、夕食の準備の合間に玄関から自分の様子を見に来てくれた。


 警察学校以前から剣道の経験者だった父には全然勝てなかったけれど、母を背にして戦ったときはいつも以上の力が出せた。まるで悪者から母を守るような気分になれたからだ。


 あの頃は……。


「!」


 突然、カフェの前に白いワンピースの裾がひるがえった。

 スカートが持ち上がるような強い風は吹いていないのだが、まるで小さな竜巻がその少女を産み落としたように見えた。


 透き通った肌に灰褐色の長い髪。

 前髪に隠れて目は見えないが、まっすぐ直哉を見据えているように見える。


「どうした? 幽霊でも見たような顔して」

 父の言葉にびくりとして我に返る。

 父が無理して明るく振る舞っていることは先刻承知だが、いい加減その貼り付けたような笑顔と声色に腹が立つ。


「ああ、幽霊を見たよ。母さんの」

 視線の端で父の顔から笑顔が消えるのがわかった。ざまあみろだ。


「なあ、その紹介したい女の子って……」

「なんだ!? やっぱり興味あるのか。すぐにでも会いたいか?」

 一瞬で、父が元の笑顔に戻る。

「ちが、そんなんじゃねえよ!」

 やっぱり聞くんじゃなかった。

 ふたたび直哉が外に目をやったとき、少女の姿は消えていた。



 少女の姿が消えたあと、室内に目を移した直哉は、父がにんまりと直哉を見つめていることに気づいた。


 まんまと息子の気持ちを揺さぶったことに満足し、父が勝利を確信したのだ。


 悔しさと恥ずかしさでいっぱいになっている間に、父は窓の外に目をやった。その目がみるみるうちに光を帯びる。


「おいおい、あいつは警察学校で同期だった奴だぞ。なんでここの交番に。挨拶してくるから先に昼飯を注文しておけ。父さんにはこの特製レトロ炒飯カレーで頼む。それから……」父はコーヒーを一口すすって立ち上がると言った。「今日はお前がたくさん喋ってくれて嬉しかったぞ。やはり女の子の話題は好きか?」


「なっ!? 俺はそんな、むしろ迷惑だ」

「安心しろ。かわいい子だ!」


 店中に響くような声でそう叫ぶと、父は店を出て行った。


 それが父と言葉を交わした最後になった。

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