透明な羽音(後編)

 彼女の瞳の輝きが増す。

「そっかあ。酒涙雨だったんだあ」

「さいるう?」

「さいるいう。七夕に降る雨のことだよ。きっと、願いが叶う前触れなの」

「さいるいう。覚えた」

 頭の中では流暢なのに、いざアウトプットの段階になると極端に精度を下げる口の動き。もどかしさに短く唸ると、可愛いと言われた。気恥ずかしくて反論したが、「可愛いではない」などと、説得力のかけらもない言葉が溢れた。


 雨音の中に、微笑の音が混ざる。

「ごめんね文ちゃん。私にとって可愛いって、褒め言葉であり、肯定の魔法なの」

「肯定? 何を?」

「それいいねって、まるっと受け止めるかんじ」

「君は、僕の何がいいの? 僕は、透明。生きて、いないかもしれないし、文ちゃんと、違うかもしれない」

 僕はただ、事実を伝えたつもりだった。すると今度首を傾げるのは君の番。考えあぐねているのか、事実を受け入れられないのか。何を感じているかは分からないが、そっと離れた手がその答えに思えた。

 ふと、頬を包む温もり。君の手が僕のもとへ戻ってきていた。

「ほら」

 太陽など出ていないのに、君の瞳が瞬いた。僕を見つめる光。それは木漏れ日のように穏やかで、それでいて希望を感じさせる不思議な光。

「私には、ちゃんと見えてるよ。少し薄くて透明に近いかもしれないけど、大丈夫。君はここにいるよ。それと、一方的に文ちゃんだって決めつけてごめんね。似てるなあって感じたのと、私がずっと願ってたからだと思う」

「願う? 何を?」

「あのね、文ちゃんが向こうでも幸せでありますようにって」


 木漏れ日が僕を包んで、僕の中を光で満たした。次の瞬間、空白が一斉に色づき舞い戻る記憶。唯一覚えていた単音の呼び声。その正体に気づいたとき、僕の瞳が雨を降らし、ぽたぽたと頬を濡らした。


「日向」


 もう一度、君の名前を呼びたかったんだ。

 僕を大事にしてくれた、大切な君のことを。

「日向。文ちゃんは、幸せだったよ」


 いつの間にか太陽が戻り、お空に天使の梯子が架かる。向こうの門番に呼ばれているのだと思った。遠くを仰ぎ見る姿から、何かを察したらしい。もう一度伸びくる日向の手。かつての僕の、特等席。

「やっぱり酒涙雨は願いが叶う前兆で間違いないね」

 幸せになるのよと、その微笑みが伝えている。

「日向。文ちゃんの願い、叶えて」

「いいよ。それはなあに?」

「幸せは、いつも日向の味方だって、信じていて」

 君の瞳からも、雨が降った。綺麗な雫が君を輝かせた。

「うん。わかった」

 どんどん雨が降るから、それを拭いたくて手を伸ばす。羽へと姿を変えた右手が柔らかな頬を撫でた。そして目指すはお空の向こう。

 羽ばたきながら思う。あの先輩はきっと思い違いをしていたのだ。誰かの記憶から滑り落ちたときにぼくらは消えるわけじゃない。大切な人の未来を信じることができたから、安心して眠りにつくのだと思う。


 そして、僕は虹の橋を渡った。

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