真夜中書房

木之下ゆうり

透明な羽音(前編)

 今年もこの季節が来た。街中に、透明な花が咲き乱れる時期、梅雨。ばんっと開花の音を立て、またひとつ街中へ溶け込んでいく。


 透明の、ビニール傘。気軽に手に入り無個性で、無色透明。僕はそこに親近感を覚えていた。文字通り、体が無色透明だからだ。僕は、名を忘れ、彷徨う理由も思い出せない空っぽの幽霊。


 人のカタチをしているから、生前は一応人として生きていたのだろう。だが曖昧な過去に思いを馳せても、返ってくるのは単音の呼び声だけだ。名前は聞き取れず、僕が発したのか、はたまた呼ばれた側なのかすら判別がつかない。だから自然と、取るに足らない思い出なのだろうと捨てかけていた。

 透明であるから、夜になると闇に馴染んで自分の姿が見えなくなる。幽霊になってから眠気を覚えたことはなく、意識的に目を閉じ眠る状態を作るようになった。夕闇、それは消滅を願う時間。朝焼け、それは希望に反して輪郭を得る時間。


 面白いことに、幽霊が眠るその寝姿はまるで蛍。一粒の光となって、虚空を彩る。魂の本質は光だと、かつてお世話になった先輩幽霊が語っていた。しばらくして彼は光を失い、風の中に消えた。皆の記憶から風化した証拠だと、言い残して逝った。


 そして僕は願った。

 僕を覚えている誰かさん、どうか僕の全部を忘れてください。忘れられたことを理由に、呪ったりなんかしません。そして、覚えていてくれるなら、どうかそれは優しい思い出でありますように。

 僕は恨まれながら地上に残っているのではないと、そう自分に言い聞かせながら願った。



 今日も朝から降り続く雨。お昼になり、街に徐々に増えていく透明の花。

その中に、鳥が羽を休める姿が見えた。すぐさま視線で彼女を追いかける。緩やかな歩調で歩く君の隣に追いつくのに、そう時間はかからなかった。

 よく見ると傘の柄に大きな文鳥の傘マーカーが揺れている。何となく気になって眺めていると、視線を感じ、君と目が合った。こんなこと初めてだったから、気のせいだと思ったけれど、試しに首を左右に揺らす度、君の視線がついてくる。

 目まぐるしく混ざり合う驚きと困惑。ひっきりなしに僕を駆け抜ける感情を抑えるべく、次なる実験を試みる。傘マーカーに手を伸ばしてみた。だが何も掴めず、ピンと立てた人差し指が柄ごと貫通した。少し指をずらして、柄を握る君の手へ。ぴたっと指先に感じる柔らかな感触。そっと、君の体温に触れた。

「文ちゃん?」

 何のことか分からず、沈黙が流れた。すると突然弾ける君の笑顔。

「やっぱりそうだ。その首のかしげかた、そっくり。真っ白だし。そっかあ、よく分からないけど、そうなんだあ」

 歩調よろしくのんびりとした口調で、喜びを露わにする君。僕は「あの」と言いかけて、止めた。「文ちゃん」とは何かの名前のように思われ、彼女は僕をその文ちゃんと同一視しているらしいが、僕にはそれを肯定する記憶も、否定する勇気もなかった。

 彼女は僕の手を掬って言った。

「おかえり、文ちゃん」


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