河童頼み


 ハジメくんには、ミワさんという高校2年のお姉さんがいました。高校の水泳部で、平泳ぎの優秀な選手だったといいます。進学希望のミワさんには、好タイムを出す必要がありました。志望大学の推薦を得るためには、それが最も有効な手段だったのです。


 ミワさんは毎日練習に励みましたが、ハードワークのせいで体調を崩してしまいました。こうなると、タイム更新なんて夢のまた夢です。悩みに悩んで悩みぬいて、彼女が最後にすがったのが、こともあろうに神頼みでした。


 水泳部には代々、その言い伝えが受け継がれていたといいます。〈河童の手のミイラ〉で身体をなでると、速く泳げるようになるというのです。だから正確には神頼みではなく、河童頼みということになります。


 ハジメくんはミワさんの努力を知っているので、何とか手助けをしたいと思って、河童のミイラを盗んだのでしょう。

「でも、ハジメくん、どうして、〈河童のミイラ〉の在り処を知っていたの?」


「それも言い伝えの中にありました。川上さんの屋敷にある〈ミイラの手〉には不思議な力があって、水泳部の大先輩がロス五輪で自由形の新記録を出せたのは〈ミイラ〉のおかげらしいです」


「ロス五輪? 1984年の話だね」と、芦矢さんが口をはさみました。「40年近く前だけど、そんな選手がいたかなぁ。なんていう名前?」


「いえ、名前は知りませんが、ロス五輪で金メダルをとったらしいですよ」


「バルセロナ五輪なら、岩崎恭子さんが金メダルをとっているけどね。自由形ではなく平泳ぎだけど」


 私も内心、その言い伝えは嘘なのかも、と思いつつ、

「とりあえず、それはおいといて、〈ミイラ〉の効果はあったわけ? お姉さんのタイムはよくなったの?」


「それが残念ながら……。姉の体調がよくなくて、プールに入ったのは一週間後でしたが、ベストには程遠いタイムだったそうです」


「そうか、残念だったね」


「ここまでの流れはわかったよ」ふたたび、芦矢が口をはさみます。「〈ミイラ〉で身体をさすったのに、お姉さんに期待した効果がなかった。その後、どうしたのかな?」


「罰が当たったと思うんです。姉は変わってしまいました。小さい頃から優しかったのに、荒っぽい乱暴者になってしまって、昨夜は僕の腕に噛みつこうとしました」


「芦矢さん、〈河童憑き〉の一種でしょうか?」


 河童に憑かれた女性は淫らなふるまいをする、と言われています。これと似たものには、〈キツネ憑き〉や〈犬神憑き〉があります。妖怪に憑かれた人間には共通点があり、大まかにいえば奇妙な言動や行動を見せるのです。


「寧々さんがそう思うのは、問題の原因が〈河童の手のミイラ〉だからだね。肝心なことを訊き忘れていた。ハジメくん、〈ミイラ〉は今どこにあるのかな」


 ハジメくんは学生服のボタンをはずし、コンビニ袋に入ってそれを取り出しました。それは私たちの探し求めていた、〈河童の手のミイラ〉でした。


「よかった。君が焼却炉に入っていたから、燃やされてしまったかと思ったよ」

「最初はそう思ったんですが、火をつけるものを持っていなくて」


「ちょっと、ハジメくん、燃やそうとしたの? 信じられないっ」

「すいません、本当にすいません」


 ハジメくんは深々と頭を下げて、私にコンビニ袋を差し出しました。中身を確認してみましたが、幸い、〈河童の手のミイラ〉は傷んではいないようです。


 私はホッと息をつき、

「よかった。〈河童のミイラ〉は無事みたいです」と、芦矢さんに見せた。

「……えっ、でも、これ」芦矢さんは、なぜか怪訝な表情を浮かべました。

「どうしました?」


「ハジメくん、君は先程、『罰に当たった』と口にしたね。だけど、罰が当たったのは君だけじゃない。むしろ、一番の被害者はお姉さんの方だね。彼女は今どこにいる?」


 そばでうずくまっていたクロが、突然、立ち上がりました。工事現場の入口の方を向いて、低い唸い声をあげています。


 ふらりと姿を現したのは、一人の女子高生でした。制服の上にイエローのパーカーを羽織っています。上体を前に倒して、両腕をダラリと下げています。フードをかぶっているので、顔の上半分がよく見えません。


 しかし、肉親にははっきりと認識できるのでしょう。

「姉です」と、ハジメくんが言いました。


 永瀬ミワさんはゆっくりと、私たちの方に歩み寄ってきます。河童に憑かれたせいでしょうか。まるで、魂を失った人間のような歩き方でした。





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