善か悪か欲か
彼は何者だ。気づけば、俺はすんでのところで彼の首に手をかけようとしていた。何とか理性が保ち、逆に言えば理性のみで俺の行動は制限されていた。すると彼も異常な空気を感じ取ったのか、すぐさま両手を挙げた。
「いや、すいません!……ご安心ください。そろそろ情報交換をしませんか」
何かと思えば情報交換?どうにも意図が掴めない。未だ目まぐるしく視界は歪んでいる。
「実は、冒険者は本業ではないんです。研究者の端くれで、研究目的で来たんですよ」
多少の理解が進む。だが、疑問は尽きなかった。
「……だ、だったら、冒険者の同伴が必要な筈だが」
「ええ、しかしなにぶん冒険者が少な過ぎて、私が資格を取る羽目になったんです。いい迷惑ですよ。ほんとに」
アドニスはため息混じりに愚痴をこぼした。
「分かった。君の正体はよく分かったよ。けど、それがさっきの問答とどう関わっているのか、未だ掴めないな」
「私もあの光の球を見て、そしてあの奇妙な冒険者にも遭遇しました。それが一般的なのか確かめたかったんです。研究者故の好奇心ですよ」
なるほど、好奇心か。ならいいんだ。思わず感嘆か、安堵の溜息を漏らした。
「そうか。……そうだよな。すまん。俺も取り乱した」
「3人」
「……?」
「3人、殺しました。その冒険者を」
彼の口からいとも容易く出たその言葉は、余りにも唐突で、残酷で、そして冷徹だった。
「な、なんて言ったんだ……?今……」
「では、そろそろ、本題に入りましょう」
彼の目は一切の笑みを浮かべていなかった。
「一人目は、中階層の初めくらい、盾を持っていました。右手は機能していませんでした。私を見るや否や、片手を挙げ襲いかかってきました。私はそこで初めて人を殺しました。二人目はそこから3日程彷徨ったところで、遭遇しました。片手剣を持っていました。彼の衣服はほぼ体をなしていませんでした。行動パターンは単調で、視界から外れれば動きはすぐ止まりました。3人目は——」
彼はさながら壊れた機械のように淡々としていて、一切の私情を載せない物言いだった。彼の説明は分かりやすくもあり、だが、その上でその全ての単語が耳から流れ落ちていった。
「……なんで」
アドニスが、こちらを向く。俺は、目の前の好青年が、いとも容易く狂人へと変わっていくのが見えた。彼の、人の命をなんとも思っていないような語りに対しては、怒りとか、そう言った歪な感情はなく、あるのは純粋な恐怖だけだった。
「なんでそんな、平気な顔できんだよ……」
彼はその細い目でじっと眺めた。まるで鋭利な刃物を首に突きつけられているような、そんな不快感を覚えた。
「何故か、と言われても……。だって、あなたも、同じでしょう?」
空気がより重くのしかかる。
「あなたも殺して、それでなお平然な顔をしている。そうでしょう。それとも、殺して、未だ自分は正常とでもいうのでしょうか?」
「……」
「……ここには善も、悪もない。とうに割り切るべきです。所詮我々は互いの理性によって生かされているだけなのだから」
鋭いのは目だけではなかった。言葉一つ一つが、言いようもないほど俺に突き刺さった。それどころか、まるで自分の本心とか、心理的な面まで、全てが見透かされているような気がした。額から汗が噴き出る。それは暑さからとは全く違う汗だった。
沈黙が続いた。俺は、仄かに照らされた地面をただ眺めていた。
「ええと。まあ、それで……。話を続けます。私は、決して敵対したい訳ではありません。結論から言うと、協力を要請しているんです。あなたの力が欲しい」
止まる俺を置いて、アドニスは歩みを再び始めた。
「どう言う意味だ」
顔をあげる。眼前には、まだ狂気が残っていた。
「言葉通りの意味です。これから先、きっと恐らく、私の旅は熾烈を増すでしょう。そして、基本的に、戦うのはもはや魔物ではなく」
「……人か」
「ええ、その通り。ここは最早魔物が
受け入れ難い真実だった。ため息が漏れ出た。ここから先、さらにこの手を汚すという事に、またこの道が、さらに険しいものになるという事に。汚れた道に自ら進んでいくのは、自分の信条が許せなかった。彼女に顔も、当てられないことだった。
……けど、それも飲み込むほどの妥協が、俺を覆い尽くした。正当防衛。仕方のないことだ。ここに、善も悪もない。そう信じて、俺は過去を記憶の押し入れに詰め込んだ。二度とその戸は開かれる気がしなかった。俺は、一歩、前へ歩き始めた。
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