三章

三章 後宮の花結師たち_01

 皇帝白匣ハクコウとの謁見から早三日。


 本格的に桜の咲き始めたこの頃。

 雲ひとつない蒼穹の下。猫妖チミャオ専用屯所のすぐ横に作られた猫妖専用鍛錬場で、草苺はもふもふたちによるもふもふとは思えない訓練を見学していた。


小苺シャオメイ。まーた来るよお」


 欠伸混じりののんびりとした忠告に、草苺ツァオメイは教本から顔を上げる。

 それは、真横に吹っ飛んできた。

 事故防止用に積まれた藁を通り抜け、鍛錬場の分厚い壁を振動させるほどの衝撃。


「スウはよく飽きないねえ。小苺、だいじょーぶう?」

「うん。編星アミボシが乗せてくれてるから」

「でも、かぁいいお顔に藁がついちゃったあ」


 太い尻尾が近寄ってきて、草苺の前髪を払ってくれた。柔らかな毛先が少しくすぐったい。


「ありがとう。編星」


 衝撃で弾けた藁の残骸を尻尾の先で器用に払い落としてくれた影猫イェマオに礼を述べる。

 草苺が腰掛けているのは馬より一周り大きく、豹よりもしなる体躯を有した巨大な影猫。


「どういたしましてえ。小苺」


 滄海を連想させる深い瞳を細めて、影猫の長――編星は喉を鳴らした。


「だから草苺だよ。何度も言ってるよね?」

「小苺は小苺だよお」

「もうっ、飼い主に似てるんだから。あんな捻くれ者に似ちゃ駄目だよ?」

「捻くれ者じゃないよお」


 草苺は編星の鼻先を撫でてやる。

 一層喉の音が強まり、編星の巨体そのものまで揺れ始めた。尻尾をピンと立てる心地良さそうな姿に、草苺も口角を緩める。


「でも、まさか薄汚れ将軍ジアンジュンが本当に禁軍の大将軍を拝命しているなんて。しかも現役大将軍でありながら太傅たいふでもあらせられるのでしょう? 宮廷四曜公よんようこうのお一人、いえ……お一匹? と、とにかく! そんなにすごい猫だなんて」

「そうだよお。薄汚れ将軍は強いんだからあ。影猫全員でかかっても勝てないよお。まあ、影猫はそもそも戦闘向けじゃないけどお……」


 四曜公とは帝を帝としてより良い方向へと教え導く尊い役職――天子の師である。

 皇帝の次位たる四曜公の権威は凄まじく、元来表立って実務に携わることはないのだが、薄汚れ将軍こと四曜公太傅は、皇帝を護る禁軍の長として日夜武官たちをしごいている猫妖だった。

 先帝の時代には、まず許されなかっただろう。


 五年前――先の堕帝紫円シエンの蛮行により宮廷は荒れに荒れ、邪欲の末に古の大蛇オロチを復活させた。

 白匣は、二度と同じ過ちを繰り返してはならないといままでにない新たな政策を練り出していた。

 四曜公太傅が現役大将軍たるのも、それが理由。


「しかも、四曜公太傅は五年前の大蛇復活の際に主上とともに立ち向かった方なんだよね? そんなにすごい猫なら、誰も文句は言えないね」

「文句を言ってもあの方は実力で黙らせるよお。実際に、ほら。黙らせられてるでしょお?」

「確かに」


 滄海の瞳につられ、草苺の若葉色の目線が崩れた藁山へと向かう。


「――っるせえ! まだ黙っちゃいねえよ!」


 藁の中から、藁まみれの角星が飛び出してきた。


「今日こそ勝って、赤点取り消させてやる!」


 意図的に派手に藁を撒き散らして出てきた角星は、藁に紛れながら影でできた小刀を投擲。鋭利なそれらは毛繕いをしていた薄汚れ将軍へと的確に向かった。が、寸前ですべて叩き落とされる。

 草苺にはどうやって小刀が防がれたのか分からない。

 分かったことは本日十三回目の模擬戦の勝者も、薄汚れ将軍だということ。


「これで、角星の十三敗目だね」


 草苺が教本を閉じたと同時に、薄汚れ将軍が消えた。

 次の瞬間には「……ぁえ?」と素っ頓狂な声をこぼした角星の顔面に――


「ぶえっ……!」


 薄汚れ将軍の前脚が、めり込んだ。

 角星が再び、今度は先程よりも派手に藁を散らして壁まで吹っ飛んだ。

 身体を捻り、華麗に着地した薄汚れ将軍が「出直してこい」と言わんばかりに鈴を鳴らした。


 四足歩行のまま、尻尾も一本。見た目はただの薄汚れたふうに見える毛並みの猫。

 だがしかし、四曜公太傅・禁軍大将軍の名は伊達ではない。


「もふもふなのに……格好いい。抱っこしたい」

「薄汚れ将軍になら、僕は抱かれたいよお」


 草苺と編星は、長い尻尾を立てて優雅に去る薄汚れ将軍の背中を、うっとりと見送った。

 二人の背後で藁まみれの角星がのろりと立ち上がる。


「…………また、一本も取れなかった……」


 彼の頬には真新しい派手な引っ掻き傷が刻まれていた。

 血の滲む頬を悔しげに手の甲で拭う。


「お疲れさま、角星」

「にははははっ! いーい加減諦めればあ?」

「アミもやられてこい!」

「ぼくは関係ないよお」

「お前もいまは草苺の護衛だろ! ちったあ鍛えてこい万年赤点!」

「ええ? ぼくはスウみたいな脳筋じゃ――ひいっ!」


 編星の耳がペタンと下がり、全身の毛が逆立つ。尻尾も爆発していた。

 いつの間にか気配なく戻ってきていた薄汚れ将軍が草苺の隣――つまりは、編星の巨体の上に、ちょこんと座っていた。


「編星の番だね」


 気を利かせて草苺はガタガタと震える編星の背からおりる。


「えっえっ、待って! ぼくは小苺の護衛を……」

「角星が戻ってきたから」

「け、けど! ぼくの上に乗ってたほうがいいよ! 触り心地もフワフワだよお!」


 編星が滄海の双眼を本当に海のように潤ませたが、草苺は彼に手を振った。


「がんばってね。編星」

「ただでさえ鍛錬は逃げ回ってんだ。さっさとしごかれてこい」

「ぼくは、ぼくはかぁいい小猫ねこちゃんなのにいぃ……」


 哀愁漂う背中に薄汚れ将軍を乗せた編星は、やる気ない足取りで訓練場の中央へと進んでいく。

 賢帝と呼ばれる飼い主に似て掴みどころがなく、どこか人を見透かす目付きの編星だが、彼も薄汚れ将軍には逆らえないらしい。


「いつもあんなふうに大人しいなら、大きいだけの可愛い猫に見えるんだけどね」


 憂いを帯びた編星の後ろ姿に、草苺は教本で口元を隠して笑った。


「あああーっ! くっそ勝てねえなあ!」

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