4 新しい目覚め
「んふふ。どうしたの? 塗ってくれないの?」
声も、体つきもすっかり女性のもので、何度瞬いてみても『おじさん』はどこにもいない。実はおじさんじゃなくておばさんだった? そんなことはあり得ない。髪の色も長さも、肩幅だって全然違う。
パニックすぎてフリーズしてしまった私に、綺麗なお姉さんは手を伸ばして紅筆を持って行ってしまった。
「ちゃんとしちゃうと、ワタシが強く出ちゃうのよねぇ。それはそれで、不都合もあるから。ここに生きているのは、おーちゃんだもの。彼が在るべきでしょ?」
「……おーちゃん」
「そうよ。おーちゃん。彼の接客を受けたのでしょう? あなたは何が欲しかったの? 見つかった? 見つからなかった? それとも、適当なところで手を打って誤魔化したのかしら」
「え? どういう意味ですか? 特に欲しいものがあったわけでは……」
お姉さんは不思議そうに首を傾げて、下唇に筆を押し当てた。
「おかしいわね。探し物がないなら、入店する気も起こらないはずなんだけど……ああ、そうなの。ランプ。それで……クッキーに繋がるの?」
相変わらず、くすくすと笑いながら一人で話している。勝手に進む話はどこでどう繋がっているのかさっぱりわからない。
困っている私に少し目を細めて、お姉さんは紅筆を私の下唇にあてがった。
「おーちゃんは探し物を手伝ってあげないのね? じゃあ、ワタシが――」
横に引かれそうになった紅筆を、お姉さんの反対の手が弾き飛ばした。その手はクレンジングシートを掴み取ると、ぐしゃぐしゃと顔をこすりつける。瞬きをする間より短い時間で、目の前のお姉さんは半端に化粧の落ちたおじさんの顔になった。
こすったからか、興奮しているからか、肩で息をつきながら私を見上げる顔は今まで見た中で一番血色がいい。今日は髭もきれいに剃られているから、『疲れたおじさん』は『まあまあイケてるおじさん』に見えた。ただ、スパンコールギラギラのドレスはいただけない。
「好奇心は猫を殺すんだ」
「はい?」
「怪しいオカマの店になんて、来るもんじゃない」
「……オカマ……なんですか?」
「違うわ」
そこにない髪をかき上げる仕草をして、おーちゃんは足を組んだ。
「ワタシがおーちゃんを借りてるのよ」
「……レッテ……!」
「言ってるでしょ。来店してるんだから、お客よ。どうあがいても縁は繋がったの。どうするかは、彼女次第。おーちゃんが対応しないなら、ワタシがするのは当然でしょ。どうするの?」
一人漫才を見ている気分になるけれど、しばらく黙り込んだおーちゃんは、盛大な溜息で決着をつけたようだった。
「逃げ帰ってもいいのに。最近の女子高生は心臓が強い」
「人間、びっくりしすぎると反応が出なくなるんですね。いい経験をしました」
「良くもないだろう。今からでも遅くない。店を出て、もうここのことは忘れて……」
言いながら、判っているのだろう。おーちゃんはゆるりと頭を振った。
私は落ちていた紅筆を拾い上げて、床についてしまった紅を拭きとっておく。
「おーちゃんさんは忘れられると思いますか? 私はもうちょっと納得いく説明がとりあえず欲しいです」
「……だよな。って、『おーちゃん』はやめてくれ。
「旺汰、さん。私は
クレンジングシートを取り出して、私は振出しに戻ったように旺汰さんの微妙に残った化粧を拭きとることにしたのだった。
*
恥じらうおじさんの唇に、ベージュよりの赤い紅をひくのは、ちょっと倒錯した雰囲気でぞくぞくする。旺汰さんは自分でやるからとずいぶん食い下がったのだけど、私はこのためにここに来たのだ。最後までやらせろとすごんでしまった。
筆を落としてしまったので、繊細なラインは作れなかったけれど、綺麗に作りすぎると彼女が強く出るというのだから、丁度いいのかもしれない。
素の顔に赤いリップだけ。先ほどまでの悶着で乱れた前髪や薄暗い照明も相まって、すごくセクシーだ。
しげしげと眺めてしまった私の肩を、旺汰さんは赤い顔で目を逸らしながら押しやる。
「女子高生、もう離れなさい。おじさんは若い子に耐性がない」
仕方ないなと化粧道具をしまいながら、本題に入ることにした。
「で、彼女はどういう?」
「彼女はこの店のオーナーだよ。本名は知らないが、通称はレッテ。“忘れられゆくものたち”の管理者、らしい」
なるほど、わからん。という顔で振り向いた私に、旺汰さんも肩をすくめてみせた。彼もその辺りはよく解らないということだろうか。
「俺は訳あって彼女に身体を貸してる。何だったか……こちらに干渉するには、こちらの器が必要、とかなんとか」
「ずいぶんガバガバな感じですね?!」
まあ、うん。とシニカルな笑いを口元に張り付けて、彼は続けた。
「店に並ぶのは、いわゆる中古品。愛用されたりしたものじゃない、数回使って、あるいは使われずにしまい込まれた物。あるだろう? こんなもの、買ったっけ? っていうやつ」
思い当たることがあって、誤魔化し笑いが漏れる。
「忘れられて処分される物の中で、使われたかった、役に立ちたかった、自分を必要としている人に巡り会いたい。そういう想いの強いものを集めてる。それだけじゃめったにマッチングされないから、普通の雑貨も混じってるけどね」
「あ、じゃあ、あのウィンドチャイムって」
「そう。ショーウィンドウのランプもね。客を呼ぶんだよ。隙があったり、何か欲しいものがある時なんか引っかかりやすい。うっかり買ってしまっても、結局本当に欲しいものじゃないから、やっぱりしまい込まれたりするんだけどな。一時的にはどちらも満足できる」
自分はどうだっただろうかと思い出してみる。キャンドルホルダーを手に入れていたら、確かに満足しただろうけど、飾り棚に置いてそのままかもしれない。もしかしたら、アロマキャンドルとかに興味を持ったかもしれないけど。
リリン、と涼やかな音がした。
思わずウィンドチャイムに目をやると、日に焼けた青年がじっとそれを見つめていた。いつの間に入ってきたのだろう。
「こんな感じ。閉めてても入ってくる客は、だいたい探してるものがある客」
旺汰さんはスッと立ち上がって、青年に近づいた。
「いらっしゃいませぇ。お探し物ですか?」
半分裏返った声で柔らかい歩き方。接客は主に彼女がするのだと、気が付いた。
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