2 おじさんとオネエさん
飛び散りはしなかったものの、明らかに割れたキャンドルホルダーに青くなって、声のした方へと勢いよく振り向いた。水沢
「あっ。痛っ」
振り向いた拍子に誰かに髪を引っ張られたかのような痛みが走る。
声をかけてきたのが男の人だというのは判ったけれど、それ以上確認する前に痛みに気を取られた。頭に手をやれば、一束ピンと浮いている。どこかに引っかかったのかもしれない。
ふぅ、と小さく息をつくのが聞こえた。
呆れられたのか、面倒臭いと思われたのかと、心臓がどきどきしだした。焦って髪を引っ張ってみても、綺麗な音が響くだけで絡んだ髪はほどけてくれない。
「無理に引っ張るな。手を除けて……俺が触っても?」
「あ……はい」
近づいてきた白いシャツに素直に頷けたのは、その声に
リリリンとチャイムの音が何度か響く。
「……そう嫉妬しなさんな。無理に引き止めても好かれないぞ」
「……は?」
何の話かと、顔を上げそうになって、「動かないで」と静かに窘められる。渋々と動きを止めれば、少しだけ苦笑の気配がした。
「おじさんが近くにいて煩わしいだろうが、もう少しで取れるから。キャンドルホルダーが気にかけてもらってて、羨ましくなったんだろう。君の気を引きたかったんだよ。俺も急に声をかけて悪かった……ほら、取れた」
白のシャツはそう言うと、今度は屈みこんで落ちたキャンドルホルダーに手を伸ばした。
縛れるほどはなさそうだが、長めの髪が耳にかかっていて、シャツはまっさらなのに少々野暮ったく感じる。そんな失礼なことを思ってしまってから、私は弁解のように慌てて口を開いた。
「あ、あの、それ……弁償……」
ひょいと見上げられた瞳は少しグレーがかっていて日本人離れしている。どきりと胸が鳴ったものの、その手がさする頬から顎にかけては不規則に伸びた髭も見えて、高鳴りそうだった胸を静めてしまった。自分で言う通り、おじさん、のようだ。
「いや。別にいい。こいつも最後に女子高生の思い出になって喜んでるだろうし、どうせ処分を待ってた身だ」
「処分……売り物では、ないってことですか?」
「欲しい人がいれば売るけど」
男の人は立ち上がって肩をすくめた。そのまま踵を返して、奥のカウンターらしきところに拾ったキャンドルホルダーを置き、代わりに箒と塵取りを持って戻ってきた。掃除する手つきは慣れたもので、すぐに床は綺麗になる。
「今日は特にオーナーがいなくてな。見定めが甘くなるから、閉めていたはずなんだが……」
半分ほど開いたドアに視線を向けて、彼はへの字に口を曲げた。
「あ、じゃあ、お休みだったんですね。すみません。勝手に……」
もじもじと髪をいじりながら軽く頭を下げた私を、男の人は少し眩しそうに目を細めて見る。そういう表情は、なんだか疲れたおじさんそのものだった。
「休みという訳でもない。客がくれば、相手はする。そのための留守番だし……君は、モザイクガラスやアンティークに興味が?」
「あ、ええと、ないことはないっていうか……そこに飾ってあるランプが可愛かったので、他にもあるのか気になって」
「あいつか」
さっきからずっと、商品を人か何かのように表現するのが気になってしまう。呆れ声は悪戯好きのペットに向けられるような調子だった。
「まあ、そうか。女子高生はキラキラが好きか。見る分にはいくらでも見ていって構わないが……それが本当に欲しいかどうかは、よく考えて決めた方がいい。ここに並んでいる物は癖が強いから……そうだな。どうせ買うならもっとちゃんとした他の店で買った方がいいと思う」
「ここはちゃんとしてないんですか?」
商売人とは思えない言い草に、なんだか逆に楽しくなってきてしまった。留守番だというから、あまり熱心ではないのかもしれないけど。
「どうかな。商売としてはちゃんとしてると思うが。扱っているものは、あまりちゃんとしてないな」
「えー。なんですかそれ。いわくつきとか? 盗品とかじゃないですよね?」
「盗まれるほど有名な品はここにはないよ。みんな、名もない、量産された中古品さ」
店の中を見渡す瞳は優しい。その中に、ふっと寂しそうな色がよぎる。さっきまで女の子たちのポップな色彩の中にいたからだろうか。その、憂いを帯びた彩度の低い表情が、やけに鮮明に目に焼き付いてしまった。
「まあ、だからアレも気にしないでいいから。保険みたいなのもあるし。気を付けて帰って」
チラ、と視線で示された壊れたキャンドルホルダーに我に返る。そうだった。迷惑をかけてた。オーナーが帰ってきたら、やっぱり怒られるのかもしれない。帰ってほしそうな気配を察知して、私はもう一度深々と頭を下げた。
「はい。すみませんでした」
「うん」
無言で促されて出口へと一歩踏み出した、その背後でドサドサとなにかが崩れる音がした。思わず振り返る。ここからは見えないけれど、二階の方だった。男の人は片手で痛い頭を押さえるようにして、一息ついた。
「……上には何が?」
他にお客はいないと思ってたけど、誰かいるのだろうか。
「本や紙類がね……あまり興味を持たないで。じゃあ」
最後は雑に背中を押されて、店を出される。半開きのドアは閉められ、静かになった店内からは、一度だけリリンとウィンドチャイムの音が小さく聞こえてきた。
*
興味を持つなと言われると、なんだか余計気になる。
しばらくはモザイクガラス風の小物が目につくたびあの店を思い出していたのだが、それとなく友人たちに聞いても、普通の雑貨屋に連れていかれるだけで、誰もあの店を知らないようだった。
別のことで有名な店だと知ったのは、ひと月も過ぎた頃だっただろうか。
街ブラ中に友人の友人が騒ぎながら駆け寄ってくる。
「ちょっと、ちょっと、ミサキ、マジヤバ! 今日、オネエ凱旋の日だよ! キモッ」
「うっそ。どこどこ?! あたし写真撮ってないんだよねー! ゆめっち、行こっ!!」
「え……写真って、なに?」
腕を引かれながら疑問を口にする。一応わからないなりにスマホを用意してはみたけれど。
「知らないのー? 厄除けになるって、流行ってるんだよ。あ、いた! オネエ、さーん!!」
ミサキがカメラを向けながら呼んだ人は、大きめのリボン型カチューシャをつけて、紫のアイシャドウとピンクのチークと真っ赤な口紅をべったり塗った顔で振り向いた。ピンクのロリータワンピがひとつも似合わない。
衝撃的なビジュアルのその人は、もっと衝撃なことに、あの店の留守番をしていたおじさんだった。
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