欲望と誘惑と興奮のポッキーゲーム。ふたりは激しく燃える。

 自分の実力に陶酔して、勝てると慢心して負ける奴は馬鹿だ。僕は調子に乗って負けた。


 つまり、僕は馬鹿だった。


「恨みっこなし、っていったよね」


 じゃんけんに負けたら、ポッキーゲームをやる。その誘いに乗ったのは僕だから、文句はいえない。


「やろうか」

「うじうじってしてたね、だいぶ」

「だって限りなくキスに近い行為じゃん」

「29歳11ヶ月ってほぼ30代だけど、20代だよね」

「だから本当にキスしなければ別だと」


 そんなの詭弁じゃないか。四捨五入したらキスだよ。アラウンドキス、略してアラキスだよ。


「ほら、口を開けて」


 今度は僕があーんをされる番だ。ちょっと緊張する。


「僕がチョコレート側で、あかねさんはいいの?」

「チョコがない部分あってのポッキーだもん」

「真逆なので助かります」

「ほら、早く」


 いわれるがままに、僕は口を開く。ゆっくりと、ポッキーが近づいてくる。


 中に入ってきたことを確かめて、口を閉じる。


 どうぞ、と手でジェスチャーをする。


「じゃあ、いただきます」


 あかねさんは、ポッキーを咥えた。優しく、溶かすように噛んでいく。すぐに終わらせる気はないらしい。


 ガツガツいくのもなんだったので、僕もあかねさんと同じペースを保った。


「……」

「……」


 ふたりを阻むものは、たった一本の棒。それも、定規一本分以下という極めて短い長さ。


 目線が合う。あかねさんに、初々しさはない。ポッキーゲームをやるのも、初めてではなさそうだ。


 初々しくあってほしい、とは思わなかった。堂々としているのがあかねさんらしい、と短い付き合いの中で、わかりつつあったからだ。


 わざとらしく、蕩けたような眼差しで僕のことを捉え続ける。コロコロと表情を変える。動き続ける口が、別の動きに見えてならない。


 ――やばい。これは、いけない。


 もうキスなんてしないなんて、そう固く誓っていたはずなのに。


 この瞳が、この表情が、僕の決心を根本から揺るがそうとする。


「うーん、おうーいあいあえ?(ふーん、余裕みたいだね)」


 動揺している僕を、あかねさんが見透かしていたらしい。食べるペースが、上がった。


 これまでが遅すぎただけで、いまだって相当ゆっくりだ。それでも、距離は着実に縮まっている。


 負けじと、僕も食べるスピードを上げる。いま、ポッキーゲームなる罪深い遊戯を考案した人物に対して、静かな怒りを覚えていた。


 こんな遊戯さえなければ、どれほど楽だったろうか、と。


 現在、長さにして三分の一ほどが、体の中に入ってしまった。唾液と口内の熱で、チョコレートがねっとりしめり、溶け出している。


 チョコレートというコーティングが、剥がされていく。もはやこれでは、ポッキーゲームではない。ただのプリッツゲームだ。


 あかねさんもまだ余裕そうですね、と僕も挑発する。


「あえあいえお?(舐めないでよ?)」


 いうと、大胆に動いた。一気に数センチ分、いったのだ。15センチある内の数センチというのは、とても大きい。


 もはや、互いの熱が伝わってくる至近距離。黙っているせいで、わずかな鼻息の音さえ、はっきり聞こえる。


 心臓の鼓動が、さきほどの比にならないくらいに、激しくなる。


 ここに来て、もう半分ほど。


 ついに、体と体が触れた。


 否、あかねさんが押しつけたのだ。


「……ッ!」


 上半身に、柔らかい感触。これは、これは……。


「おっあい、おう?」


 胸だ。あかねさんのそれは、決して小さくない。ほどよく重量感のあるそれは、もはや凶器だ。


 直視できない。目線が、一点に吸い込まれる。僕は最低野郎に違いない。


 もう、ポッキーはないに等しくなってきた。引くならもうこの辺だ。さもないと、完全にアウト。レッドカード、一発退場ものだ。


 ――しかし、それでいいのだろうか?


 この瞬間、すべてが満たされている。至近距離、キス寸前、上半身には胸の感触。


 こうしてつらつらいうと気持ち悪いが、ともかく楽園に違いない。なのに、キスで失敗した過去を引きずって、この楽園に目を背けるのか?


 悪魔の囁きだ。所詮、僕も健全であり、健全にほど遠い男子高校生だった、というわけか。


 この瞬間、僕はキスすることも、止めることもできる。あかねさんのいい草を真似るなら、シュレディンガーの猫。


 ジーッとこちらの方を見て、僕を試してくる、あかねさん。


 ここに来て、どうするか。


「ッ……!!」


 理性が、勝った。ポッキーを噛み切り、後ろに身を引く。


 その様子を見て、あかねさんは驚きを隠せていなかった。予想外。その言葉がぱきっとはまる。


 体重を、あかねさんはこちら側に預けていた。それを僕は、忘れていた。


 当然、バランスを崩し、あかねさんが倒れてくる。


「きゃっ」


 バタン。音がした。


「いたっ」


 背中を強打したのだ。痛いに決まっている。


 頬に、熱い感触があった。


 まさか、キスをされてしまったか……?


 頬をなぞると、ねっとりした感触とともに、指が汚れた。チョコレートである。あかねさんの口から、飛び出してしまったようだ。


「ご、ごめん」

「いや、大丈夫。怪我、してないし」


 視線を上げると、あかねさんが僕を馬乗りする形だった。


 こういうのって、たぶん男女逆のパターンが多いのでは、などと野暮な考えが脳裏をよぎる。


「私、調子に乗りすぎた」

「いや、謝らないで。こちらが感謝するくらいだし」

「感、謝……?」

「聞かなかったことにしてくれ」

「わかった」


 とりあえず、片付けようか。うん。そうだね。短い応答。


 そういうことになった。


「……」

「……」

「「あ、あのさ」」


 片付けが終わって。


 完全に気まずい雰囲気が、この部屋の中を漂っていた。


「私、なんかおかしいよね。いけない、このままだとなにしでかすかわからない」

「すぐ終わらせなかった僕も悪いです」

「拓也くん、きょうはありがとうね」

「帰るんですか、僕の服で」

「ジャージで来て、別のジャージを着て帰っても同じだから。いずれ返すね」

「こちらもちゃんと」


 急ぎ足で、あかねさんは帰った。


「……疾風怒濤、か」


 興奮は、冷めていた。ふたりとも、熱に浮かされていたようだった。


 まるで、なにか魔法にかけられていたようで……。


 いまは、ただ虚無感、無気力感に襲われるのだった。

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