スキンシップ。ポッキーゲーム。

 これまでは篠崎さん・前野君という呼び方だったのを、あかねさん・たっくんに変える。


 とても大きな決断だ。些細なことだ、と一蹴されかねないが、僕にとっては大きかった。


 なにせ、ちゃんと話してから、日数に換算すると、手足の指の本数にも及ばない。


「とにかく、慣れることから始めよう」

「たっくん、とっくん、たったたた?」

「ついに頭おかしくなったのか」

「たぶん君のせいだよ」


 冗談だけどね、とあかねさんは付け足す。


「慣れるのも早いこと早いこと」

「たっくんに対して苗字で呼んでたのがイレギュラーだっただけで、基本は下の名前でみんな呼びたいタイプだから」

「下の名前で呼ばれると、新鮮だからかむず痒いな」


 かつてお世話になった担任の先生にも、苗字で呼ぶタイプと下の名前で呼ぶタイプにはっきり分かれていた。


「苗字+さん」付けが一般的だった。名前で呼ぶのは歳の近い先生が割合多かったように思う。


 それはさておき。


「新鮮だからこそ、相手の印象に残せる。やり方さえ間違えなければ、結構有効なテクニック」


 あかねさんさんは力説した。ただ、僕にはちょっと引っかかった。


「たぶんあかねさんだけの特権」

「そうかな?」

「僕がクラスの女子を等しく下の名前で呼んでいたら?」

「……悪印象かも」


 予想通りの答えだった。ただしイケメンor美少女に限る、というやつだ。


「しのざ……いや、あかねさん」

「どうした?」

「あかねさんはあかねさんで、新婚夫婦感が出てる気がしてきて」


 たくやさん、あかねさん。


 これだと新婚一年目感がある。とにかく初々しい感じがする。


「また文句? そんないけない子にはさ……」


 背後を取られ、すーっと背中の筋をなぞり上げられる。


「うゃっ」

「すごい声」

「男のくすぐったい声なんて需要ないのに」

「まだ終わらないよ。えいっ」


 次は、髪をぺとりと背中に押し付けた。


 ふわっ、と甘い香りが来る。


「ちょ、あかねさん?」

「新婚夫婦のモノマネ、似てる?」

「ただのスキンシップでしょうが」


 距離を取る。これ以上、この香りの近くにいたら危険だ。


「興奮してる?」

「してないですって」

「まだ、スキンシップ足りない?」

「じゃあ認めますよ、いい香りと感触でした」

「えっ、きも」

「手のひら返しの度が過ぎる」


 いきなり近づいてきたものだから、心臓の鼓動が急速に高まる。段階を飛ばされると体に障る。


「やっぱりさ、私って男好きなのかもしれない」

「悟りましたか」

「ほんと女子に生まれてよかった。逆だと犯罪認定されかねないもん」

「理不尽ですね」

「訴えられるはずのことをすると、喜ばれるんだもんね」


 腹の底まで開いてしまえば、もはや人間は悟りの領域に至るのか。


「なんで出し抜けにスキンシップしたのか、私にもよくわかってない」

「もはや無意識の領域」

「DNAに刻み込んまれてるのかな」

「家系ですかね」

「たぶん」


 さて、と僕は立ち上がる。小腹が空いてきた。


「お菓子、食べましょうか」

「なにがある?」

「ポッキーに柿ピー、ポテチに煎餅」

「私はポッキーにしようかな」

「じゃあ僕はポテチを。ちょっと食べます?」

「一口だけ」


 ローテーブルを引っ張り出し、軽く拭いてからお菓子を展開する。


「ポテチはあーんでほしいな〜」

「新婚ごっこですか?」

「うん。楽しくなってきたから」


 ポテチを一枚つまみ、あかねさんの方に差し出す。


「いくよ」

「んーっ」


 目を瞑り、なぜか口を閉じて待機している。


 キスを待っている体勢と、同じだ。


「キスはしませんよ」

「新婚ならするよ?」

「まだ新婚じゃない」


 諦めて口を開けたところに、ちょっと強めに差し込む。


「んっ、いおいお(ひどいよ)」

「すぐ誘うふりをする罰」

「いういあい(意気地なし)」

「勝手にいっとけ」


 ぷはー、という声が漏れる。食べきったようだ。


「違う違う、メインはこっちじゃん」

「メイン?」


 ポッキーを個包装からスライドさせ、一本だけ取り出す。


「ポッキーゲーム、知ってる?」

「はぁ……懲りない人だ」


 ポッキーゲーム。


 恋人同士が、ポッキーの両端を口に咥えて食べ進める。


 真ん中までいくと、もはやふたりの口を遮っていたポッキーはなくなり、ついにはキスに至る。


「結局キスだし、なんともストレートな」

「途中でやめたら問題ないでしょ」

「そういって僕を乗せる」


 キスの異能力が、唾液の作用なのか、唇の作用なのか。


 わからない以上、微量でも唾液が付着しかねないポッキーゲームは、避けるのが無難だ。


「私のことはお試しでいいよ。どこまでやれるか、試してみない? ポッキーの先っぽだけじゃん」

「それ、奥までいくやつ」

「気にしすぎだって。ここまでスキンシップしてたら、もう私がたっくんに惚れても、そんな変わらないよ」


 あかねさんは、過去の三つの事例を知らないから、こんな呑気でいられるのだろう。


 キスは、人を捻じ曲げるのには充分な行為だというのに。キスではないか。


「じゃあ、じゃんけんで決めようか」

「じゃんけん……!」


 僕の得意分野だ。


 地区のじゃんけん大会優勝経験あり。負けたことは、片手の指に数えられるほど。


 数々の不敗英雄伝説を築き上げた僕に、敗北のふた文字は存在しないと思っていただこう。


「安心しろ。それならいい。僕はじゃんけんに負けない男だ。僕が勝ったら、この話は、なしだ」

「決まりね。文句なしの一本勝負、いい?」

「もちろん」

「出さなきゃ負けだよ、じゃんけん――」


 相手の手が動き出した瞬間、僕の視界がスローになる。もはやその領域だ。


 瞬発力を活かして、次の手を、大方予想できるのだ。


 あかねさんが出すのは、たぶんチョキ……!


 勝った! ポッキーゲーム、回避!


「「ポイ」」


 馬鹿な、と僕は叫びたかった。


 ビデオテープの映像に乱れが起きたかのようだった。チョキだったはずの手が、突如、パーに。


 いまさら手を変えるにも、もう遅い。


「たっくん、弱いね」

「おかしい、いや、そんなはずは……」


 蠱惑の表情を浮かべ、あかねさんはポッキーをくるくると回していた。



「じゃあ、しよっか」

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