洞窟には危険がいっぱい
闇におおわれた天井のほうから、長いものが垂れさがってきていた。人の胴体ほどの太さがあるそれは、漆黒の鱗におおわれ、たいまつの揺らめく光にあわせてぬらぬらと濡れたように輝いている。
……ヘビだ!
悲鳴をあげた少年が急に黙ってしまった理由もすぐにわかった。
「う、うおあああ! 魔物よけが効いてるんじゃねえのかよぉぉ!」
かわりに悲鳴をあげたのは眼帯の男だ。椅子をうしろにひっくり返して仰向けに倒れる。中年の男も腰を抜かしたようになって、ふたりは部屋の出口へ這っていく。
ルイーザは転びはしなかったものの、椅子に座ったまま硬直していた。
護衛も何もいないこんなところで巨大なモンスターに出くわすなんて。度胸のある彼女も呼吸を忘れるほどの恐怖であった。
なぜ少年が黙ったか。上からやってきたヘビが少年の頭部をくわえ込んでいるからである。少年はくぐもったような声をあげてもがいているが、首から肩、肩から胸へと、少しずつヘビの口の中に送り込まれていく。
このままでは飲み込まれてしまう。
少年が必死に抵抗しながら何かを叫んだ。ルイーザの耳にそれは、
「助けて」
と聞こえた。
ルイーザは金縛りがとけて立ち上がった。
逃げ出すのではない。
(蜜鉱脈の所有者代表として、たとえ立てこもりを起こした者であっても採掘者を無下にするわけにはいかないものね)
座っていた椅子を手に取り、ルイーザは少年へと駆けよった。
勇ましくも、ルイーザは振り上げた椅子でヘビの頭を打つ。だが非力だ。まるで効いているように見えない。もう一度持ち上げて振り下ろした。
すると跳ね返された衝撃でいすを取り落としてしまう。
「くっ……」
ルイーザは攻撃をあきらめて、少年がこれ以上ヘビの中へ入っていかないように体を抱えた。
「こちらから殿方に抱きつくなんてはしたないっ……」
などと言いながらも頑張って少年を引き戻そうとする。が、やはり非力である。
「あなたたち、仲間なのでしょう。何をしているの」
ルイーザは振り返って眼帯の男たちを叱咤した。
「見なさい、こうやっているうちはヘビもこちらに攻撃できない。力を合わせて助け出すのよ。あなた、鉱脈で働く労働者のために行動しているのではなかったの?」
眼帯の男は年が半分ほどの少女に叱られてなんとか立ち上がった。彼女が言うようにヘビは少年を飲み込もうとするばかりで他を攻撃していない。
「よ、よし」
及び腰ながら眼帯がやってきた。いちおう仲間を思う気持ちはあるようだ。ふたりで少年を引っぱるがやはり動かない。このままでは十分に呼吸ができなくなるかもしれない。
「おい、ダズおまえも来い」
とずっと通路の近くで立っていた大男を呼ぶ。
「ドライフ!」
眼帯は続けざまにもうひとり、中年の男を呼んだが、すでに逃げ出したらしく姿がなかった。
ルイーザとしては敵対派閥につながる芋づるの端っこだからそっちを追いたい気持ちもあった。が、さすがにこの少年を置いていくわけにはいかなかった。
全力でひっぱりながら仔細に観察すると、ヘビの牙は意外と小さい。毒がなく、噛まず丸呑みする種類なのか、細かく数の多い歯が少年の着ている服を噛んでいるのがわかった。
「服を脱がすように引くわよ。聞こえる? 服を脱ぐようにしなさい」
前半はひっぱる眼帯たちに、後半はもがく少年に言った。
足を掴んで引きずり出すと、上半身の服を噛ませたままずるりと抜け出た。
少年は空気を求めて喘ぐ。
「立ちなさい。逃げるわよ」
ヘビは頭を振って服を吐き捨てた。獲物を横取りしたルイーザたちを怒りのこもった目で睨みつける。爬虫類の瞳は怒っていてすら体温がないように冷たい。
洞窟を荒らす人間たちに向けてヘビが襲いかかる。
大男のダズが少年を背負い、眼帯の男とともに駆け出す。ルイーザもそれに続いた。
通路に出て走る。体力のなさがわざわいして、自然と彼女がしんがりになってしまう。
ヘビも部屋の外まで追ってくる。通路に体をこすりつけるようにして這ってくる。
ルイーザは息切れ切れに、こんなに必死になって走ったことは生まれてこのかた一回もない。
足がもつれる。首都にいたころに比べれば質素な服装とはいえ、丈の長いスカートは運動に適しているとはいえない。
ついにルイーザは転んでしまった。振り返ってうしろから迫るヘビを見ているしかできない。危うし!
彼女の頭上をなにかが飛んだ。
符だ。符は今にもルイーザに向けて口を開こうとしていたヘビの鼻面に貼りつき、強い光を放った。
『光明』符である。暗闇にすむヘビにはこの光は刺激が強すぎたようで、苦しげにのたうつ。
茫然とそれを見ているルイーザの耳に聞き慣れた声が飛び込んだ。
「ルイーザ!」
たいまつを片手に駆けよってくるのは他でもない。
ルイーザは彼の名を口にした。
「……ティリオ君」
ティリオは倒れたルイーザの前に膝をつき、手を差し出した。まるで淑女をエスコートする紳士みたいだとルイーザは思った。……うしろでヘビが暴れているが。
ティリオの手を借りてルイーザは立ち上がる。その際デコボコした地面に足を取られてまたバランスを崩し、彼の胸の中に飛び込んでしまった。
「あっ」
侯爵令嬢としても、知事としても、またひとりの乙女としても、ルイーザはすぐにティリオを突き放すべきであろう。
まわりにほかの人がひとりでもいればそうしていたに違いない。
だがなぜかこのとき、ルイーザは反対に彼にしがみつくようにしてしまった。
理由は彼女自身にもわからない。
ヘビは逃げるように奥へと去っていった。
ティリオは急に抱きついてきた少女を扱いかねて、押し返すでもなく抱きとめるでもなくただ硬直していた。
それをおかしく思いながら、ルイーザはそっと彼から離れた。
「失礼、つまづいてしまったわ」
「あ、そ、そうだな」
たいまつの火はゆらめいていて、明るさが安定しない。そのおかげで、彼女の頬の色はティリオに悟られずにすんだ。
・
「私にたどりつく前に男性とすれ違ったと思うのだけれど」
ルイーザはすでに実務的な表情に戻っている。
「あ、ああ。いたよ。まずひとり、それから三人だったかな? ひとり背負われてた」
「最初のひとりのほうよ。痩せて細長い感じの中年男性?」
「うん。やたら急いでたみたいで声かけても無視されたが」
「そいつよ」
ルイーザは自身の推測をティリオに話して聞かせた。
「つまりそいつを捕まえればこっちに有利になるかもしれないって話だな」
「ええ、でも無理でしょうね」
おそらく洞窟から出てすぐ逃げ出しているだろう。
ひょっとしたら立てこもり犯ということで護衛が拘束している可能性もあるのでは、とティリオが言ったが、
「ダルセイルは忠実で腕が立つけれど機転が利くタイプではないのよ」
ルイーザはそう答えた。ダルセイルはヒゲの生えた護衛の名だ。
あらかじめ、立てこもり犯が出てきたら逮捕しろ、と命じておけば確実に遂行しただろうが、自分の判断でそうする男ではないというのがルイーザの評価だった。
「まあ、立てこもりが解決したことで今回は満足するしかないでしょうね。それよりも、あんな大きなモンスターが潜んでいるとは思わなかったわ。採掘中に遭遇したらあまりに危険すぎる」
「明るく賑やかにしておけばまず出ないとは思うが」
「それでも出てしまった以上、評判というのはすぐに広まるわ。このままでは採掘しようという人がいなくなるかも」
「そこで冒険者には洞窟の探索をお願いしたい。考えてみれば洞窟の全容はほとんどわかっていないし、どんな危険があるのか調査してほしい。ひょっとしたら第二の蜜鉱脈もあるかもしれないし」
「なるほどね。受けるかどうかひとりで決めるわけにはいかないが、前向きに検討させてもらう」
「ええ」
洞窟の入り口が見えてきた。もうたいまつは必要なさそうだ。
ふたりだけの時間もそろそろおしまいである。
ルイーザは意味ありげな視線をティリオに送った。
「ところで……」
「ん?」
「さっき私の名を呼び捨てたわね」
「そうだったか?」
「デュバリの知事であり、ヴァロンダ侯爵令嬢であるこの私の名を、敬称もつけずに」
怒ったような顔と口調だが、これは芝居だ。
だがそうとは知らないティリオはあわてた。
「いや、とっさのことで、呼びやすさと認識しやすさを重点に置いたらそうなるというか、無意識というか、決して偉そうにしたわけじゃ……」
「本来ならばきつく譴責するところだけれど」
ルイーザは一転、ここで花咲くような笑顔を見せた。
「許可します」
「え?」
ちょっとだけはにかむようにして、
「特別よ。ティリオ君、私のことを呼び捨てで呼んでかまわないわ」
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