戦姫ナタリーは皇妃になる気はありません
新巻へもん
第一章 ロンガ家の姫ナタリー
第1話 海賊の襲撃
海鳥の群れがにぎやかに鳴きながら海面すれすれを飛んでいる。
時折さっと舞い降り、くちばしに魚をくわえて空中へと戻った。銀色の腹がぴかりと太陽を反射する。
波間に揺れる小舟からその様子を眺めていたナタリーの持つ竿がぴくりと動いた。十分な手ごたえにぐいと竿をあげると大物が身をくねらせる。
さっと網ですくい上げナタリーは笑みを漏らした。
普段のそっけない様子からは伺えないが、笑みを浮かべると年齢相応のあどけなさのようなものが表情に加わる。
幅広い肩と浮き出た腹直筋、逞しい大腿を晒し、一部では修羅姫と恐れられているナタリーが、このような表情ができるのを知ったら人々は驚くことだろう。
そんな一面を知っているのは、今のところ妹のカトリーヌだけだった。
ナタリーは網から魚を魚篭に移すと革袋の栓を開けて水を飲む。少し革の臭いのついた生ぬるい水が喉を滑り落ちていく。
上から照り付ける太陽と海面からの反射で熱せられた体が少しだけ癒された。
十分な釣果を得ているし、水も残り少ない。どうしようかとナタリーは考える。館に戻るか悩ましいところだった。
館に戻れば、きっと老臣バルドに捕まっていつものお小言を聞かされ、退屈な礼儀作法などを学ばされるだけだ。
ナタリーにはそれが無駄なことに思えて仕方ない。
素晴らしい配偶者を得るために必要な素養といわれても、それを生かすチャンスがあるとは思えなかった。
ナタリーは自分がロンガ家の色黒大女と裏で言われているのを知っている。
ナザール王国の貴族でナタリーを知らない者はまず居ない。もちろん良い意味では無いし、息子の嫁にと所望する者も皆無だった。
本人の容姿や資質を脇に置くとしても、ロンガ子爵家の所領は辺境に位置し、王国の貴族としてごく一般的かやや平均に劣る経済力で、特に名門というわけでもない。強いて縁を結ぶ価値がある家ではなかった。
ナタリー自身も自分が深窓の令嬢というタイプではないことは十分承知している。
一応はお年頃なので、吟遊詩人が爪弾くバラッドのような恋に憧れがないといえば嘘になるが、自分には夢物語と諦めていた。
漁師の娘でも、もうちょっと慎ましい格好をしていると言われれば、確かにそうかもと頷かざるを得ないナタリーである。
今日も魚釣りに邪魔だとばかりに、半そでの丈の短いチュニックの上に分厚い革の胸当てをつけ、腿の途中までの短ズボンを履いているだけの姿だった。
普段からそんな服装なので、素敵な王子が迎えに来ないだろうというのはまだ諦めがつく。
納得がいかないのは自分が物語の英雄のように活躍する立場になれないことだった。残念ながらナザール王国では女性が将軍などの地位につくことはありえない。
ナタリーの肩のところでまどろんでいた火蜥蜴のピートが首を起こす。ぺろっと舌を伸ばしてナタリーの頬を舐め、思索の旅から呼び戻した。
「ナタリー様~。大変です!」
呼ばれた方に顔を向ければ波打ち際に騎乗する男の姿が見えた。老臣バルドの息子で馬丁を務めるジェフリーが空馬の手綱を引きながら叫ぶ。
「ロンガーネに海賊が!」
その声を聞くと舟の中に引き上げていた櫂を海中に突っ込み、ナタリーは力強く漕ぎ始める。一かき一かきに無駄がなく舟は滑るように海面を進んだ。
あっと言う間に岸に乗り上げると舟の中に置いておいた剣をひっつかみ、砂の上を走って空馬にぱっと飛び乗った。
ジェフリーが差し出す
次いで弓と矢筒を背負った。
「舟を上げておいて。それから魚篭も忘れないで」
早くも馬腹を蹴って駆け始めたナタリーにジェフリーが叫ぶ。
「姫様。私も……」
「怪我するのがオチよ。それより晩御飯の面倒をよろしく」
ナタリーは振り返りもせずに馬を操って草むらを駆けのぼり、土ぼこりを残して見えなくなった。
ジェフリーはため息をつきながら、馬首を返して波打ち際に戻り下馬する。馬の首筋を撫でながら愚痴を言った。
「そりゃ、僕は戦いでは姫様ほど役に立たないだろうけどね」
ジェフリーの体つきは細い。均整は取れているもののそれほど力強さは感じさせなかった。
重たい魚篭を取り上げ、馬の鞍にくくりつける。それから舟をうんうん言いながら波打ち際から数十歩離れた岩陰までひきずっていった。
「ほら。僕にだってこれぐらいの力はあるんだ」
ジェフリーの言葉に馬はたてがみをこすりつける。
「ああ。分かっているよ。僕では海賊の一人、二人を倒すのがせいぜいだろう。それに引きかえ、姫様は……」
そこまで言うと首を振る。それでも早く戻らなくちゃ。
馬に跨ると速足で駆けさせ、ロンガーネの町に向かった。
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