遠原季沙(とおはらきさ)編(※妊婦が死にます)
おれの恋人が妊娠したらしい。
らしい、という覚束無い認識なのはおれはきちんと避妊をしていたはずだからだ。
おれは友人らの中で一番医療に精通していると思われる女性に連絡を入れた。
詳細は会って聞きたいと言われたので、電車で二駅先の店に向かう。
揺られながら窓を見ると丁度トンネルに入り、今にも死にそうなおれの顔が反射した。
いつもの待ち合わせ場所で遠原季沙(とおはらきさ)と合流して料亭に入る。
料亭の人はおれのことを覚えていてくれた。
個室に通され、震える手で料理に手をつける。
緊張で味が全く分からなかった。
向かい合うように座っている遠原ちゃんは小鉢で料理を食べている。
「なるほどね。それで、彼女のお腹の子はどれくらいなの?」
「ど、どれくらいって……か、彼女はもうすぐ産まれそうって言ってた、よ。ど、どうしよう。どうしたらいいと思う!?怖いよ、怖いんだ、ずっと、人間のお腹ってあんなに風船みたいに膨らむものなの!?あんな今にも破裂しそうな物体!こんな重荷におれは耐えられない!」
「そっかそっか。じゃあ、もう見てわかるくらいなんだね」
おれは本当に避妊はしっかりしていてコンドームが破けたこともないし、現実逃避をしている間にここまで来てしまったことを縺れる舌で必死で伝えた。
父親から継いだレストラン業が忙しくて時間が取れなかったこともあるが、恋人に堕胎して欲しいといくら頼んでも譲って貰えなかったのだ。
おれの弁明に遠原ちゃんはほとんど口をきかず、ただうんうんと頷いている。
料亭の仲居さんがやって来て、デザートは何にするかと聞いた。
遠原ちゃんは仲居さんを見て相好を崩す。
「こんにちはお姉さん。わあ、色が白くてお人形さんみたいだ。それに所作が丁寧でとっても綺麗だね」
おれは間髪入れず発言する。
「抹茶ケーキを二つお願いします!」
仲居さんはかしこまりましたと会釈をして立ち去った。
遠原ちゃんはおれを見る。
「ご、ごめんね。勝手に決めて……他のが良かった?」
「?いいよ。大丈夫。私も丁度抹茶ケーキが食べたかったからね。でもそんなに焦ってるの?」
「そ、そりゃあ勿論!」
「でも、私はただの視能訓練士だよ?天才医師でもましてや魔法使いでも無いし……まあ、せっかく頼ってくれたことだし、魅力的な君の頼みだからね。提案くらいならしてあげてもいいかな」
「手伝ってはくれないの」
「秘密くらいは守ってあげるよ」
遠原ちゃんは橙色の目を細めて嘘みたいに優しく笑っていた。
おれは遠原ちゃんを連れて恋人と一緒に暮らしている一軒家に向かう。
リビングにいた恋人がおれ達に気づいて何かを言う前に、おれは彼女を頭を殴り付ける。
腹部の重みで半回転しながら倒れ込む恋人の姿はさながら不格好なダンスを踊っているようでなんだか酷く滑稽だ。
決して笑い事ではないのだけれど、おれと同じことを思ったのか背後の人物の笑う声がした。
フローリングに伏せて倒れた状態の恋人の後頭部を何度も殴り付ける。
一心不乱に殴り続けているとやがて頭蓋骨が陥没して顔の下から血を流し始めた。
「ああ、ストップストップ。それくらいでいいんじゃないかなぁ」
制止の声をかけられて、拳を止める。
肩で息をしながら振り返ると、遠原ちゃんは血が飛んでこないようにか、リビングの扉の先の廊下に出ていた。
遠原ちゃんは血飛沫を避けるようにぴょんぴょんと跳ねながらリビングに足を踏み入れると、先程ホームセンターで買ってきたタオルで返り血の着いた頬を労わるように拭ってくれる。
魚のような生臭い匂いが鼻腔を突き刺していた。
「その子の向きを変えてみたらどうかな」
おれは遠原ちゃんの指示に従って恋人を仰向けに寝かせ直す。
右目の眼球は落ちかけていて、床と殴る衝撃に挟まれた鼻は折れて潰れていて血のあぶくを溢れさせている。
おれは膨れ上がった腹部に耳を当てた。
目を閉じて耳を済ませると、心拍が確かに聞こえて、麻痺した心に悪夢のような恐怖が湧き上がる。
「もし生きてるなら、帝王切開するしかないね」
「お腹の上から刺すだけじゃ、だ、だめかな?」
「死体を確認しないと不安が残って困らないかな。確実な方が良いと思うよ」
「で、でも……赤ちゃんなら、生きてても大人になる頃には覚えてない、かも……」
「とても稀なケースではあるけど、0歳の時から記憶がある人間はいるよ。不安の芽は摘んでおくに越したことはないんじゃないかなぁ」
「……そうだな」
おれは買い物袋から取り出したゴム手袋を嵌めた。
天井の白い光に向けて両手を掲げるとなんだか本当の手術のようでおかしな気持ちになる。
おれはメスの代わりにしては随分と大ぶりなナイフを手に取ると、恋人の肉体に手を添え、膨らみの上部につぷりと突き刺した。
真っ直ぐ縦に線を引いていくと、切り込みから血液が溢れて左右に割れるように流れる。
濃度を増した生臭さに小さくえずいてしまう。
取り出された赤ちゃんは通常より小さくて頼りない手足を節足動物のように蠢かせていた。
なんだこれ、気持ち悪い。
仮にも血を分けた存在なのだと、姿を見てしまったら情が移るかと思ったが、そんなのは杞憂だったようだ。
首に手をかけて力を込めると、小気味良い音と共に脆い頚椎が碎けた。
おれはだらんと力を失った赤ちゃんだった肉塊を赤い泉と化した母体の近くに雑に放る。
ああ、どうしよう。痛快だ。
そう思った瞬間、横にいた遠原ちゃんがぱちぱちと拍手をした。
「お疲れ様。やり切ったんだ。心配事が消えて良かったね」
「うん……でも……」
「秘密は守るって言ったでしょ?まだ何か不安かな?私へのお礼は焼肉屋に連れて行ってくれたらそれで良いよ。牛ハラミが食べたいな」
「いや……おれって恋人と……仮にも血を分けて出来た子供を殺せたんだなぁって……」
「んー……というか、多分それ君の子供じゃないんじゃないかな?」
「え……?」
「ほら、君のお店って今もかなり稼いでるからさ。君と結婚したい女の子って珍しくないというか、むしろ沢山いるんじゃないかなー。それこそ、子供が出来たって嘘を吐きたくなっちゃうくらいには。ね?」
何の根拠もない遠原ちゃんの言葉を聞いて、おれは不思議と納得した。
つまり、おれは上手いこと嵌めらた被害者で、だから恋人や赤ちゃんを殺しても傷つかなかったのだ。
なんだそりゃ。
おれは肩の力を抜いて、ため息を吐く。
「もっと早く殺すべきだった」
おれの言葉に、遠原ちゃんは不思議と楽しそうに笑っていた。
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