十四

 おじさまの葬儀は、隣村から駆けつけてくれた年配のお坊さまにおまかせして、亮治さんとわたし、それから井山さんをはじめ限られた村の方々たちだけで、ひっそりと終えました。その後、お母さまに事の次第を手紙で伝えました。きっとひどく驚くに違いないとわたしは思っていましたが、お母さまはなにか予感していたのでしょうか、返信には冷静な文章で、感謝とねぎらいの言葉が書かれていただけでした。

 それからひと月と経たないうちに、戦争は終わりました。

「修子、あんた東京帰り」

 八月十五日が過ぎて数日経ったある日の朝、表の掃き掃除をしていたわたしに、亮治さんは突然そう言い渡しました。有無を言わせぬ口調に、驚いたわたしが顔を上げると、亮治さんは非常に厳しい目をしてわたしを見つめていました。その時、亮治さんはいつもの浴衣姿ではなく、男性用の夏物の白いシャツと亜麻色のズボンを着ていました。彼のそういう姿を見るのは初めてのことでした。わたしははっとしました。今の今まで、この世界に生きる誰より近しい存在だと思えていた亮治さんが、一気に離れてしまった気がしました。わたしはその時になって、初めて知りました。亮治さんが、こんなにもひとりの男の人だったという事実を、初めてまざまざと思い知ったのでした。

「ここも近いうち引き払わなあかんし、ぼくもいい加減いっぺん大学戻らなあかんと思うてたところや。籍がどうなってんのかもわからんけど。せやから、あんたは」

「嫌や」

 わたしは言いました。またしても下手な関西弁でしたが、それでも構ってられませんでした。嫌や、とわたしは繰り返しました。知らないうち、わたしはその場にしゃがみ込んで、ぼろぼろに泣き崩れていました。

「だって、ひとりになったら、亮治さん、死んでしまうのでしょう? わたしがいなくなったら、亮治さんは、きっと、ひとりで死んでしまう気なのでしょう? そうなのでしょう?」

 半狂乱になって、わたしは叫びました。どんなにみっともなく見えたとして、別に恥ずかしくもなんともありませんでした。わたしは必死でした。どうにか亮治さんを繋ぎ留めたいと、真剣にそれだけを願って泣きました。けれどそんなわたしの想いに反して、降ってきたのは盛大なため息でした。

「あんた、ほんまにあほやな」

 亮治さんは呆れ返った様子で、わたしの目線までしゃがんでくれました。

「ぼくが今さら、なんの得があって、死ななあかんの」

 泣いたまま、呆然と見上げたわたしに、亮治さんは笑いかけました。なんだかお母さまみたいに柔らかな笑顔でした。

「威一郎と夢子が二人しておるようなところに、むざむざ出向くやなんて、そんなん、もう二度と御免や。せやから当分、死んでたまるか、いう話や。こうなったらもう、亡霊になってでも、どこまでも生き延びるしかあらへん」

 亮治さんはわたしの頭に手を置いて、乱れた髪をさらにくしゃくしゃに乱して、高らかに言いました。

「ほんまに?」

 わたしは訊きました。

「ほんまや」

 亮治さんは苦笑混じりに答えました。ちょっとうんざりしているようでもありました。それでもわたしはまだ不安でした。

「約束よ」

「はいはい、約束。なんなら、指切りでもしとこか?」

「ええ」

 袖で涙を拭い、わたしは亮治さんに小指を差し出しました。亮治さんの細長い小指がそれに絡むと同時に、ゆびきりげんまん、と、わたしたちは声を揃えて、わざとらしい大声で約束しました。

 そしてわたしは、亮治さんより一足先に山を下りて、東京へ帰りました。


          ✽


 東京に帰って、わたしはすぐに現実へと引き戻されました。

 半年あまり留守にしていただけなのに、東京の街は、あちこち焼けてまるで知らない異邦の地のようでした。駅まで迎えに来てくれたお母さまと一緒に、わたしは辺りをきょろきょろと見回しながら、この街に残った人々のくぐり抜けた恐怖を想像しました。隣でお母さまが生きて歩いているのが奇跡のようでした。

 ようやく戻ってきた生家は、そこを離れる前となにも変わらない外観をしていました。しかし現実の変貌は、わたしの知らないうち、我が家にも少なからぬ影響を与えていたのでした。お父さまが、左足の膝から下を大怪我して、体調をひどく崩していたのです。

「五月の空襲の時に、逃げ遅れてしまって、こうなってしまったの。修子が心配するからって、お父さまに、手紙には書くなってきつく止められてしまって」

 帰宅した時、お父さまはちょうどお昼寝をしていました。その枕元で、お母さまは涙ながらにわたしに説明してくれました。この怪我以来、お父さまは以前のように働くこともままならず、お医者さまの話では、将来も社会復帰は絶望的だということでした。

「修子、帰ってきたのか」

 わたしたちの話し声が聞こえたのか、目を覚ましたお父さまは、にこりと安らいだ表情を浮かべて、のびやかに言いました。

「よかった、よかった」

 お父さまは嬉しそうに繰り返すと、再び寝付いてしまいました。

 もしかしてお父さまは、もうあまり長くはないのかもしれない。お父さまの寝顔を見ながら、わたしはこの時、そんなことをさえ思いました。そうしてわたしは気付きました。わたしにはもう、悲しんでいる余裕さえないのだ、ということが、ようやくもって実感されたのでした。避けようのない現実に向かって身を乗り出さねばならない、それがまさに今なのだと、覚悟を決める時が来たのです。

 戦後の混乱の中、女学校を卒業したわたしは働きに出ました。特別学のあるわけでも、また要領がいいわけでもないわたしに、仕事を選んでいる暇はありませんでした。食堂の皿洗いをはじめ、給仕や販売員、事務員、時には子守りなど、思い返せば実に様々な職を渡り歩いたことでした。それまでののんびりした自分からは考えられないくらい、わたしは存分に働きました。あの時期は、ろくに休みも取らず働いてばかりいても、不思議と疲れを感じませんでした。自分でも心外なほど、わたしは働くことを楽しんでいました。

 亮治さんとは、東京に戻って以来、数回手紙のやり取りをしました。大学はなぜか無事に卒業できて、最近は半分遊んで半分働いているような状態だと、その中で報告を受けました。けれど文通を始めて半年ほど経った辺りで、わたしは返事を書くのを止めてしまいました。今から思えば、その時のわたしはきっと、怖かったのだと思います。亮治さんとのやり取りを延々続けていくうち、いつの日かふと、胸にしまって忘れていた大切ななにかを思い出してしまうのが、現実に忙殺される必要のあるわたしにとって、なによりの脅威に感じられたのだと思います。それゆえわたしは筆を置いて、あの山奥のお寺でのことも記憶の彼方に追いやって、来る日も来る日も働きました。亮治さんからも催促の手紙はなく、いつしかわたしたちの間の連絡は途絶えました。

 それから七年ほど経って、わたしたち一家は住み慣れた家を売りに出し、下町の方にある店舗付きの住宅へと引っ越して、小さな喫茶店を営み始めました。それには京都のおじいさまからの融資もあって実現できたことでした。

 わたしはそれまでの間に調理場で働いた経験を活かし、厨房で独自メニューの開発に勤しみました。創意工夫を凝らすのは、大変ではありましたがなかなかに楽しい作業で、順調な仕事始めとなりました。その頃にはだいぶ体調も落ち着いてきたお父さまには帳簿をお任せして、また根っからのお嬢さま育ちのお母さまは、最初はなにもできないのではと不安でしたが、生来の愛想のよさから接客を受け持ってくれて、そのために随分と多くのお客さまが通ってくださる店になることができました。

 お父さまはその後も長いこと健康を維持していましたが、昭和三十八年の冬、肺炎を起こし六十八歳で亡くなりました。足はとうとう完治することはありませんでしたが、最後まで温かくわたしとお母さまを見守ってくれました。そしてお母さまは、働くのが案外性に合っていたのでしょうか、特に大きな病気をすることもなく、平成元年に九十歳で亡くなるまで、いつまでも元気で朗らかなままでした。

 それからさらに月日は流れ、わたしは八十歳を迎えるまで、お母さまと同じに大した病気を患うこともなく、厨房に立ち続けました。けれど長年の疲れのせいか、その年の秋に腰をひどく痛めてしまい、以前より店を手伝ってもらっていた、従姉妹の蘭子お姉さまの三女、すみれちゃん夫妻に後を任せ、現場を引退しました。その後、店はリニューアルして内装もすっかり変わり、今では若いお客さまも多くなったと聞きます。開店した当初はこんなに長く続くとは夢にも思っていなかったので、今でも信じられないような気持ちでいっぱいです。両親には、つくづく感謝の念しかありません。

 わたしは結局、一度として結婚せず、子も持たずに、いつの間にかお母さまよりさらに長生きして、今はひとりで暮らしています。時々すみれちゃんの娘の奏ちゃんが遊びに来てくれて、彼女もまたわたしと同じ独身主義らしく、二人で気ままに世間話などします。コロナウイルスが流行り始めた頃には、店も一時期危なかったらしいですが、今はなんとか頑張って持ちこたえているようです。なにがあるかわからないこの世の中ですが、それでもわたしの人生は、とても恵まれて幸福なものでした。

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