十三

 亮治さんは死んだように眠り続けていました。

 警察の方々が正午過ぎに帰ったあと、わたしは井山さん家族に連れられて、一度山を下り、井山さんのお宅で遅すぎる朝ご飯をご馳走になりました。不思議と食欲はあって、わたしは出された白ご飯もお味噌汁も無理なく平らげてしまいました。今日のことのすべてのお礼にと、わたしは東京から来た時お母さまに持たされた幾ばくかのお金を、懐から取り出して丸ごと差し出しましたが、それは丁重に断られてしまいました。その上、おきみちゃんのお母さまはわたしと亮治さんの夕食用に簡単なお弁当までこしらえて、帰り際に手渡してくれました。わたしはこれ以上なく頭の下がる思いで、ありがたくお弁当を受け取り、山へ帰りました。

 お堂に着くと、ほとけさまの御前に敷かれた布団の上で、目を閉じたおじさまは、やはり死んでいました。わたしは枕元のお線香を取り替えたあと、亮治さんのもとへ行くと、彼は依然眠ったままでした。真っ白な顔で、こちらもまた死んでしまったのではと、心配になって覗き込むと、ゆっくりではありますが深い呼吸をしていました。安堵したわたしは、彼を起こすことはせずに、その場を立ち去りました。

 お勝手の格子窓の下、例の隠し場所に、手紙は変わらずありました。腕を伸ばしてそれを引っ張り出すと、封筒も中身もそのままでした。しばらく、わたしはその手紙を持ったまま、ぼんやりと眺めました。そのうち日も暮れて、お勝手も足元が見えにくくなってきて、わたしはかまどに火を点けました。なにを思ったのか、その炎の中に、わたしは手紙を投げ入れました。ぱちぱちと薪が燃える中、火に囲まれた手紙は、ゆっくりと灰になっていきました。わたしは飽きずにその様子を見届けました。

 ふと気付くと、傍らに亮治さんが立っていました。怒られるかと思いましたが、亮治さんは力なく微笑んで、「今日はご苦労さまやったね」と、細い声で言っただけでした。目覚めた亮治さんは正気に戻ったようでした。けれどその顔は疲れ果てて、病人のように青白いままでした。

 亮治さんはお弁当を半分ほど食べて、わたしより先に休みました。わたしはわたしの分に加えて、亮治さんの残した分まで全部食べてしまいました。異常な食欲に、自分でも戸惑いましたが、箸は止まりませんでした。そうしてお腹がいっぱいになると、わたしもわたしで疲れていたのでしょう、ひとりで起きているのも悲しくて、おじさまのお顔をもう一度拝んだあと、自室に戻って床を敷きました。

 布団に入って、五分もしないうち、廊下から亮治さんの呼びかける声が聞こえました。返事をすると、亮治さんは遠慮がちに障子を開いて、中を覗きました。

「なんもせえへんから、今晩だけ、ここで一緒に寝てもええ?」

 ひどく心細い声音で、亮治さんは訊きました。その様子はまるで捨てられた子猫のようで、かわいそうでたまらず、わたしは「ええ、もちろん」と即答しました。

 並べて敷き直した布団に、わたしたちはそれぞれ潜り込み、おやすみなさいと言うこともせず、しばらくそのままでいました。亮治さんがまだ起きているのは、なんとなく気配でわかりました。それでなくとも、彼はきっと今晩一睡もできないに違いないと、あんな出来事のあとですから、当然のように思われました。

 わたしは目を開いて、天井を眺めました。暗くてよく見えないのに、感覚は冴え渡っていました。わたしはその時、妙に落ち着いていました。なにかすべて割りきったような気持ちでした。

「なんかしても、ええよ」

 思い出してもあまりに下手な関西弁で、わたしの声は響きました。関西弁で喋ってみたのは、この時が初めてでした。

「いらんわ、あほ」

 すかさず亮治さんは言い返しました。怒っているのか、笑っているのかよくわからない声でした。わたしの心はひと息に萎んで、さっきまでの潔さが嘘のように消えてしまいました。悲しさと恥ずかしさとがこみ上げて、そのまま泣き寝入りしたい気持ちにさえなりました。亮治さんの視線を感じて、わたしはそれから逃れるように、布団を頭まで被って彼の方に背を向けました。

「あんたな、そういうのは大事に取っとき」

 ぴしゃりと言われて、わたしは追い打ちをかけられたような気分で、余計に悲しくなって、とうとう涙を流してしまいました。そうして暗闇の中で泣いていると、その音に混じって、わたしのものではないすすり泣きの音が、背後から静かに聞こえてきました。

「そうやないと、ぼくみたいになる……」

 最後まで言いきれないうち、声が潰れてしまった亮治さんに、わたしはびっくりして飛び起きました。見ると、亮治さんは両手で目元を隠して、けれど指の間からは涙が止めどなくこぼれ落ち、震える肩を濡らしていました。

「亮治さん」

 わたしは彼を抱き起こすと、頭ごと胸の中に収めるようにして、回した両腕にぎゅっと力を込めました。そうすればするほど、亮治さんは全身を震わせて、傷付いた心のままにむせび泣くのでした。今にも消えそうなほど小さくなった彼を抱きしめながら、わたしもまた泣きました。涙は尽きませんでした。

 わたしは思いました。今この時だけは、どんなに戦争が苦しいものでも、どんなに人々が戦争で苦しんでいようとも、今、この時だけは、この部屋で二人、取り残されてうずくまる亮治さんとわたしとが、世界じゅうで一番かわいそうだと思っていい、と。そうでなければ、どうしてこの夜を乗り越えることができるだろうか、と。いつしか声も出なくなって、それでもなお涙が溢れる中で、わたしは強く思いました。

 わたしが亮治さんを抱いているのか、それとも亮治さんがわたしを抱いているのか、もはやわからないくらい、わたしたちは互いに互いを抱え続けました。いつの間に二人して意識を失い、床に倒れ込んでなお、わたしたちは腕と腕を取り合っていました。避けようもなく朝がやって来て、二人の身体が離れるまで、わたしたちは、まるでひとつの泡粒のように、境い目なく身を寄せ合っていました。

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