十二

 七月二十三日のことでした。

 いつもどおり、六時前に目を覚ましたわたしは、着替えを済ませ、部屋を出ました。締めきられたままの雨戸を見て、おじさまも亮治さんもまだ寝ているのだろうと思ったわたしは、できるだけ静かに居間へ向かいました。

 けれど居間には亮治さんの姿があったので、わたしは少々驚いてしまいました。薄暗がりの中、亮治さんは畳の上にへたりと座り込んで、こちらに背を向けていました。敷居に足の先がかかっていて、その向こうはほとけさまの御前でした。

「亮治さん」

 一見して、彼の様子がどうにもおかしいことは、すぐにわかりました。背筋に冷たいものが走るような気がして、わたしはなるたけ大声で呼びかけました。それなのに、亮治さんは振り向くのはおろか、身じろぎひとつしてはくれませんでした。

「亮治さん、どうしたの」

 恐怖が、わたしの上にだんだんと重くのしかかり始めて、わたしの心臓は今にも爆ぜそうなくらいばくばくと音を立てていました。その音を掻き消すようにして、わたしは亮治さんの側まで駆けていきました。そうしてわたしは、見ました。

 ほとけさまの御前、いつもおじさまが座っておつとめしている場所に、人が倒れていました。薄暗がりの中でも、その丸めた頭がおじさまのものであることは見間違いようがありませんでした。けれど、変でした。普段の黒い法衣とは違い、白い寝巻姿のままのおじさまは、向こうの障子に頭を向けて、うつ伏せに寝そべっていました。着物の白い色のせいで、おじさまの全身は、薄ぼんやりと浮かび上がって見えました。しかしその身体は、石のように固まっていました。そして、その下の床板に、なにかまた別の色が見えました。鈍く光るそれは、湖のように広がっていました。赤い湖面の輝きに、わたしはようやく理解しました。それは血でした。

「これ、なんやろ?」

 問いかける亮治さんの声が、頭の中で幾重にもなって、気味悪く反響しました。答えられやしないわたしは、叫ぶことも叶わず、亮治さんの隣に、力なく崩れ落ちました。

「これは、どういうことなんやろ?」

 亮治さんが、再び訊ねました。あきらめの悪い彼は、わたしのように震えることも視線を逸らすこともせず、見開いた目で前を凝視し続けていました。そして彼は問いました。何度も問いました。きっとそれは、わたしに向けてではありませんでした。ただひとりおじさまへ向けて、もはや返ってくるはずのない答えを、亮治さんはいつまでも待ち続けていました。

 おじさまは、死んでいました。その朝、亮治さんとわたしを置いて、おじさまは、遠い夢子おばさまのもとへ、旅立ってしまいました。


          ✽


「ぼくがやったんとちがうやろか」

 井山さん家族に手伝ってもらって、警察の方をお堂まで案内した時、時刻はもう九時近くになっていました。

「ぼくってほら、若いのに戦争も行ってへんし、勤労もせずこんな山奥で毎日だらだらしてばかりやし、それに、こんな風に女の着物なんか着て、不審や。どっからどう見ても不審者やわ。せやから、きっとぼくが殺したんや。ぼくが威一郎を殺したんや。ぼくは自首します。お巡りさん、あんたらぼくを逮捕せなあかんのやで」

 おじさまの遺体が確認される間、気が狂ったように亮治さんはべらべら喋り続けていました。実際、あの時の亮治さんは狂っていたのでしょう、誰も相手にしないのに、皆に向けて大声で、怒鳴りかかるような勢いで語りかけていました。けれど、おじさまが自殺したことは、誰の目から見ても明白でした。

 おじさまの遺体を検分していた方が、凄いな、と小声で漏らしたのを、わたしは逃さず聞きました。仰向けにされたおじさまの胸には、一体どこにそんなものを隠し持っていたのでしょう、小刀がまっすぐ突き刺さっており、おじさまの両手はその柄をしっかりと握りしめていました。心臓の真上でした。そこからは夥しい量の血液が溢れた跡が、赤黒い色となって白い衣を染め上げていました。その凄惨な光景とは裏腹に、両目を深く閉ざしたおじさまのお顔は、静かに澄んだ表情を浮かべていました。

 すべてが終わるまで、わたしは正座して作業を見つめ続けました。傍らにおきみちゃんが付いてくれて、けれど彼女の方が先に泣き出してしまい、その震える背中を抱えていると、次第にわたしの目にも涙が堪えきれず浮かんできました。そうしてわたしたちが慰め合う間も、亮治さんは依然声を張り上げて、全く事実ではないことを叫び続けていましたが、見かねたおきみちゃんのお父さまが、細い亮治さんの身体を半ば引きずるようにして、寝室の方へと連れていってくれました。亮治さんは初め必死に抵抗していましたが、力では敵わないと悟ったのか、廊下に出る頃には一転して無気力になって、人形のようにあっけなく運ばれていきました。

 憔悴した亮治さんを寝かし付けてから、おきみちゃんのお父さまはわたしの側へ戻ってきて、「あのお方は立派な方やったから、きっと今の世を憂えて、生きながらえるのが忍びなくなってしまったんでしょう」と、余計な詮索はせずに、こちらを気遣った言葉をかけてくれました。きっとわたしを励まそうとしてくれたのでしょうが、その優しい言葉は、却ってわたしを一層悲しくさせました。

 もしもおじさまの死の理由が、ただ純粋にそのような想いだけだったなら、どれほどよかったことでしょう。そこに夢子おばさまも、わたしも、そして亮治さんも、誰ひとり関わることのなかったのなら、どれほどわたしたちは救われたでしょう。

 そんな風に考える自分の身勝手さ、残酷さが、わたしの心を地より深い場所へ、暗い暗いところへ向けて、底なしに落としていきました。わたしは泣きました。おきみちゃんより激しく、わがままな子どものように泣き続けました。それでもおじさまは、目覚めませんでした。もう二度と、わたしたちに言葉をくれることはありませんでした。

 家じゅう探しましたが、おじさまの遺書は、とうとう見つかりませんでした。けれどそれで当然でした。おじさまにはこの世に書き残すべきことなどひとつもなかったのでしょうし、なにより、わたしと亮治さんには、おじさまの死がなぜこの日に起きねばならなかったのか、その理由を容易に推測できる根拠がありました。おじさまが、いつ桐原さんからの手紙を見たのか、定かではありませんが、手紙には夢子おばさまの命日が明記されていました。六月五日、そこから数えてちょうど四十九日目となるのが、七月二十三日でした。その事実だけで、あとはもう、考えるまでもありませんでした。

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