十一

 神戸の方で大きな空襲があったことは、その手紙を受け取る数日前より、おきみちゃんから聞いて知っていました。けれどわたしは、知りませんでした。威一郎おじさまと別れた夢子おばさまが行った先が、西宮の桐原さんという人のところだったなんて、おじさまも亮治さんも、ひと言も教えてくれてはいませんでした。

 あの少女のような夢子おばさまが亡くなってしまっただなんて、わたしには信じられませんでした。というより、信じたくありませんでした。亮治さんが地面に落とした手紙を、わたしは遠慮なく拾って何度も読み返しました。それなのに、いつまでも実感が湧いてきませんでした。夢子おばさまの死は、本当に夢のようにしか思えませんでした。

 亮治さんとわたしが正気に戻れたのは、それから二十分近く経って、雨がようやく少しばかり治まってからでした。すっかり濡れねずみになってしまい、身体が冷えきって震え始めたわたしを、亮治さんは手を引くようにしてお勝手へ連れ戻してくれました。その亮治さんももちろんずぶ濡れで、わたしたちはかまどの前に座り込み、冬の日のように暖を取りました。

 しばらく、亮治さんは無言のまま、わたしから取り返した手紙を膝に置き、じっと視線を落としていました。もしかして亮治さんはそれを燃やしてしまうつもりじゃないだろうかと、火に照らされて白く浮かぶ彼の横顔を見つめながら、わたしは思いました。もしそうならば、わたしは自分の手を焦がしてでも、それを止めなければならない、そんな風にも思いました。けれど亮治さんは、顔を上げて落ち着いた声で言いました。

「夢子が死んだことは、どうしたっていずれ威一郎の耳に入ってしまうのやから。この手紙をほかしてしもうたら、あの人のことやから、あとでばれた時ぼくらに斬ってかかってくるかもしれへん。けど、だからって、今ここであっさり渡してしまうのは嫌や。それだけは絶対、嫌や」

 まるでわたしの心を見透かしているかのように、亮治さんは丁寧に語りました。その冷静で、けれど抑えきれず嫉妬心が漏れ出てしまって熱のこもった言葉に対し、部外者のわたしがなにを言ったとして、諫言かんげんになりようがありませんでした。それがわかって、わたしは、それならばどこまでも亮治さんに寄り添っていこうと、そう心に決めて、静かに頷きました。亮治さんは安堵したのか、こちらを振り向くと優しげに微笑んでくれました。それはほとけさまにも似た微笑みのように、わたしには感じられました。

 お寺の中で、おじさまが最も足を踏み入れることの少ない場所と言えば、このお勝手にほかなりませんでした。二人で考えた末、木格子の窓の下の、鍋置き場の一番奥、陰になって見えにくいところに、亮治さんは手紙を隠しました。


          ✽


 それからのひと月あまり、わたしたちは、とても不思議な時間を過ごしました。

 手紙が届いてからの亮治さんは、それまでとは別人のように穏やかになりました。笑顔の中に常にあった憂鬱の影は跡形なく消え、なにかにつけて口にしていたおじさまへのお小言も鳴りを潜めて、いつだって空元気の感のあった亮治さんは、ここにきてようやく彼本来の明るさを取り戻したようでした。以前と同じに彼はよく喋りましたが、その言葉には棘がなく、口調もゆったりと落ち着いたものへ変わっていました。そうして敵意のまるでない亮治さんの姿を見ていると、彼の持つ美しさがより一層際立って、わたしは大げさにも本物の菩薩さまを見るような気持ちにさえなったのでした。

 亮治さんのそのような変化は、おじさまにもよい影響を与えました。それまで、亮治さんのいる前ではほとんど笑顔を見せなかったおじさまが、食事時など、亮治さんとわたしのする雑談に、控えめではありますがくすくすと笑い声を漏らすことがあるようになりました。次第におじさまが会話に参加するようなことも増え、季節が夏めいていくにつれ、食事の量もだんだんと復調していきました。気付けば、おじさまはかつてないほど元気になっていました。夏の明るい太陽が、お堂の内部を隅々まで照らし出し、それが夜になっても続いているかのようでした。

 わたしたちは、いつの間に、三人で笑い合うことができるようにさえなっていました。信じられないような奇跡の日々の訪れでした。おきみちゃんが、いつか「浄土のよう」と言ってくれたのが、本当に現実となったかのようでした。

 ある日の夕食時、亮治さんが言いました。

「なあ、いつか戦争が終わったら、山下りて、三人で商売でもせえへん? ぼくは口達者やから客引き、威一郎は裏方に徹して、それから修子はにこにこ笑って看板娘でもしてくれたらええわ。なにを売るかは今決めんでも、状況次第で考えたらよろし。な、結構上手くいくと思わへん?」

 この突拍子もない話が冗談であることを、もちろんわたしはわかっていました。それでも随分乗り気の亮治さんの様子には、なまじ冗談とも言いきれない熱意が垣間見えて、わたしは笑いながらも気圧されてちょっとばかり戸惑ってしまいました。けれど本当に戸惑ったのは、その後のおじさまのひと言でした。

「それもええな」

 驚きのあまり、わたしと亮治さんは思わず目と目を合わせました。この手の冗談に、芯から生真面目なおじさまが乗ってくるだなんて、それこそ冗談のようでした。

「なにやの、威一郎らしくもない」

 亮治さんが、顔をわずかに赤らめて、おじさまから視線を逸らしながら、怒ったように言いました。それを受けておじさまは、これまたおじさまらしくもなく、大口を開けてはははと愉快そうに笑いました。

「ええやないか。たまには、らしくないのも」

 食事が終わるまで、おじさまはずっと陽気なまま、意味もなく楽しそうに笑っていました。その隣で、亮治さんは怒ったふりをし続けながら、忙しなく箸を動かして食べ物を口にかっこんでいました。俯いた亮治さんの両頬はますます赤らんで、隠しきれず笑みがこぼれてしまっているのを、わたしは微笑ましく見つめました。

 その晩、夜中にぱっと目覚めたわたしは、ふと思い立って、お手洗いに行きたいわけでもないのに、暗い廊下にそろそろと出て、おじさまの寝室の襖の前で、そっと腰を下ろしました。虫の鳴き声が夜の静寂を一層際立たせる中、わたしは自身の存在を消し去り、じっと動かずただ耳だけをそばだてていました。とんでもなくはしたないことをしている自覚は、さすがにありました。けれどその時は恥もなにも感じてはいませんでした。わたしはただ、なにかを確かめたい一心でした。

「ええの?」

 声が聞こえたのは、それからまもなくでした。亮治さんの声でした。

「ほんまに、ええの?」

 問いかける声は、まるで幼い子どものようでした。亮治さんは、ひどく驚いた様子で、震えがちの声は怯えてさえいるようでした。

「ええよ」

 おじさまの声がして、その直後、亮治さんがはっと息を呑む音が聞こえました。続けて着物と着物が擦れ合う柔らかい音が響いて、わたしは、お祈りでもするみたいに両目を深く閉ざしました。

「威一郎」

 亮治さんは、呼びかけました。それは、わたしがその時までに聞いた、どの呼びかけよりも強く、愛しさのこもった声でした。

「威一郎」

 何度も繰り返して、その度愛しさもつのっていく、そんな甘やかな声でした。わたしには、目の前に見えるようでした。わたしの背後で、襖の向こう側で、おじさまの身体に強く抱きつきながら、心から嬉しそうに微笑む亮治さんの姿が、ありありと見てとれるようでした。

「ぼく、今、ほんまに幸せや」

 涙混じりの声は、わたしの心の奥にまで届くほどに、澄んだ喜びに満ちていました。それを最後に、わたしは立ち上がり、大人しく自室へと戻りました。布団に入って、なぜでしょう、わたしも少し泣きました。ひどく温かい気持ちで、わたしはその晩、朝まですやすやと眠りました。

 翌朝、「おはよう」と言った亮治さんは、とても綺麗でした。

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