十
その頃からでした。元より食の細かった威一郎おじさまが、より一層食べなくなってしまいました。ひどい時には、朝に白湯を飲むだけの日などもあり、不安になったわたしは夜のおつとめの場へこっそりおむすびを差し入れたりしたのですが、翌朝見ると、それは結局手付かずのまま残されていました。仕方なしに片付けて、ほぐしてお茶漬けにでもして食べようと、お勝手に引き上げようとしたところ、向こうから来た亮治さんに見つかってしまいました。お盆の上に取り残された二つの小さなおむすびを見た亮治さんは、
「ああ、もったいな」
おじさまの寝室の方へ向けて、聞こえごなしの大声で言い放ち、片手でひょいひょいとおむすびをつまみ上げると、そのまま口の中に放り込んでしまいました。
「毎日毎日朝から晩まで、念仏ばっか唱えて、食事もろくにせんと、あの人、なにがしたいねやろ。ほとけさんなんて、ほんまはよう信じとらんくせに」
お勝手に戻ってから、亮治さんがそう言ったので、わたしは驚いて、
「よう信じとらん、だなんて、そんなこと」
ありえるはずがない、あの真面目なおじさまが、と、信じられない思いで呟きました。すると亮治さんは、すかさず意地の悪い笑みを浮かべて、
「修子、あんたあほやな」
馬鹿にするように言うので、わたしもむっとして睨み返しました。それが余計に面白かったのでしょうか、亮治さんは、今度は声を立ててひと笑いして、愉快そうに喋り出しました。
「ああ見えて、威一郎は、とんだ生臭坊主やで。あの男が信じるものと言ったら、決まりきってるやないか。あの男が、唯一、信じてるのは……」
声がだんだん小さくなるにつれ、亮治さんの顔から笑みが消えて、虚ろな影が色濃くなっていく、その様を、わたしは黙って見つめることしかできませんでした。言葉が消えると同時に、虚ろさもまた消えて、一度、全くの無となった表情は、徐々に険しさを帯び始め、最後には、非常に厳しいものに成り変わってしまいました。修羅とは、きっとこのような表情に違いないと、見つめたままのわたしは思いました。
修羅の顔をしたまま、なにも言わなくなってしまった亮治さんに、わたしもまた、続きを促すようなことはしませんでした。亮治さんの言いたかったことは、聞かなくともわかりました。そしてそれがきっと真実なのだろうことも、あの夜のおじさまの声を思い返せば、納得せざるをえませんでした。
五月の終わりから、次第に雨の日が増え始めて、六月に入ると、もう完全に梅雨らしい日々となりました。鬱蒼とした木々の葉に雨粒の当たる音が終日響き渡って、その途切れのない激しさは、却ってお寺の寂しさを強調するかのようでした。この頃になると、おきみちゃんが山を登って来てくれる頻度もめっきり減って、毎度親切に分けてくれる食糧の量も少なくなっていました。
「威一郎も食べへんし、ちょうどええやない」
亮治さんはいつもながらの気楽さで、調子よく言いましたが、わたしは迫り来る不穏な気配を感じずにはいられませんでした。
それから日を置かずして、手紙は届きました。
その日は明け方から雨が降っていました。以前は郵便物はすべて麓の井山さんのお家で一旦預かってもらい、後日おきみちゃんに届けてもらっていたのですが、手紙だけ届けにお寺まで登ってもらうのも申し訳なく、またわたしが山道に慣れたこともあり、お寺へ至る山道のちょうど中腹あたりに郵便箱を設置して、そこに入れておいてもらうことにしていました。七時過ぎ、朝の支度をひと通り終えたわたしが傘を差してそこまで下りていくと、おきみちゃんが閉め忘れたのでしょう、郵便箱の蓋が半開きのままになっていました。幸い中はそんなに濡れておらず、箱の底には封筒が二つ入っていました。
ひとつは見慣れたお母さまからの手紙で、いつもながらおおらかな筆遣いの文字が並んでいました。そしてもうひとつは、威一郎おじさま宛てのものでした。繊細な筆致の宛名書きはそれまで一度も見た覚えのないもので、裏返すと、送り元は兵庫県
おじさまに手紙が来るのは珍しく、ましてお寺の関係でもなさそうなその手紙に、わたしは純粋に興味を惹かれました。もしかしたらおじさまの昔のご学友なのかもしれないと思い、それならばおじさまもきっと喜ぶに違いないと、わたしは早足にお寺へ戻りました。お勝手から飛び込むようにしてお堂へ入ると、そこには朝食の準備を終えて手持ちぶさたの亮治さんが、柱にもたれかかってぼんやりと立っていました。
「ねえ、西宮の桐原さんって、亮治さんは知ってる? おじさまのお知り合いかしら」
わたしは心持ち声を弾ませて訊ねました。しかし亮治さんはそれを耳にした途端、雷に打たれたように全身をびくりと震わせて、信じられないという顔つきでこちらを一直線に凝視しました。全く予想外の反応に、怖じ気付いたわたしが封筒を握ったまま動けなくなっていると、亮治さんはまるで敵軍に攻め入るような勢いで、わたしの方へ凄まじい速さで近付いてきました。
「貸して」
言うやいなや、亮治さんはわたしの手の中から封筒を引っ手繰るようにして奪い取りました。そこに書かれた文字を見て後、亮治さんはお勝手から居間へ出て、おじさまがその場にいないことを確かめると、すぐにまた戻って、今度は外へ向けて走り出しました。
ひどい雨の中を、亮治さんはちっとも気にせずに、わたしの存在さえ忘れてしまっているようでした。背中を見失わないうちに、わたしも飛び出して後を追いました。さすがに若い男の人なだけあって、亮治さんはその浴衣姿からは考えられないほど足が速く、裏庭に着いた頃にはわたしの息は切れて、膝に手を置いてぜいぜいと噎せ返ってしまいました。そうやってわたしが俯く傍らで、その場に立ち止まった亮治さんは、手紙の封を乱雑に破り開き、中の書面を躊躇なく引っ張り出して読んでいました。おじさま宛ての手紙なのだから、いくら亮治さんでもそんなことはしてはいけないと、わたしは注意しなくてはとどうにか顔を上げて、けれどその先、なにも言えなくなってしまいました。
その時の亮治さんの表情を、どんな言葉で描写すれば、正しく伝えられるでしょう。わたしは今もわかりません。けれどあの時、亮治さんはきっと、誰より嬉しく、そして誰より悲しかったに違いありません。亮治さんは笑っていました。これ以上ないほど美しく、輝かしく微笑んでいました。けれどその瞳に揺れる光は、苦しげに屈折して、目に映るなにもかもを弾き返してしまいそうなほど、孤独な冷たさに満ちていました。
「夢子が死んだ」
亮治さんは言いました。はっきりと聞こえる声でした。目尻から、つと涙がひと筋流れ落ち、頬を伝っていきました。それで亮治さんはなお、微笑んでいました。
「夢子が死んだ」
微笑みが、徐々に崩れて、だんだんと狂気を帯び始めていくのを、わたしは見ていられませんでした。嗚咽を漏らしながら、同時に笑い声も含ませて、壊れてしまったように歓喜する亮治さんの姿は、ひどく痛々しく、目にし続けるには耐え難い辛さがありました。そこから逃げるようにして、わたしの瞳は探しました。全くの明るさの中、堂々と咲き誇っていたあの赤い花を探しました。柱の付け根の、以前と変わらず見つけやすい位置に、それはあったはずでした。けれど見つけた時には、もう手遅れでした。
雨の下、赤い花は、見る影もなく枯れ果てていました。葉も茎も、根元まですべてが黒っぽく変色し、その姿はまるで、抜け殻のようでさえありました。
亮治さんは笑い続けていました。雨も涙も、いつまでも止みそうにありませんでした。
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