七
とりとめのない日々は、とりとめのないまま、次々と流れていきました。その中をぼんやりと過ごすしかないわたしは、時折悪夢を見る夜はあっても、未だ現実からは逃げ出したまま、いつしか罪悪感さえも忘れて生きていました。
けれどそんな日々を、一瞬にして覆す出来事が起こりました。あれは五月ももう半ばを過ぎて、湿気を含んだ風が強く吹いていた日のことでした。その日は朝からおきみちゃんが訪ねてくれるはずが、九時になっても姿が見えないので、なんとなく不審に思いながらも、いつもどおり亮治さんと二人で細々とした家事に取り組んでいました。十一時前、洗濯をしようとお勝手から外へ出ると、荷物を背負ったままのおきみちゃんが、お堂の柱の影の中に立ち尽くしているのが見えました。おきみちゃんおはよう、と声がけながら近付いていくと、彼女は黙ったまま、力なく微笑んで頭を下げました。いつになく暗い雰囲気で、顔色も悪く見えたので、心配になったわたしは、
「どうしたの? なにかあったの?」
深く考えもせず、まるで自分が彼女のお姉さんにでもなったかのように、少しばかり大人ぶって訊ねました。すると突然、おきみちゃんはその美しい顔をくしゃりと歪めて、わっと泣き出してしまいました。
「兄さんが、戦死したって、今朝、手紙が」
背の高い彼女の胸に抱き込まれるようにして飛び付かれたわたしは、彼女の涙声に、動揺して身体を強ばらせてしまいました。それでもおきみちゃんは縋り付いたまま、わたしの肩に額を当てて、さらに激しく泣きじゃくりました。
「兄さん、この六月で二十歳になるとこやったのに。あんなに優しうて、強うて、いつもうちをかばってくれたのに。ああ、お嬢さん、うち、悔しうてかなん。辛うて、悲しうてかなん。兄さん、結婚もまだやったのに」
心臓を、太い杭で貫かれたような感覚が、一瞬にしてわたしの全身を駆け巡りました。おきみちゃんがさり気なく告げた最後のひと言が、血塊のように耳にこびりついて離れず、延々とこだまし続けていました。結婚も、まだやったのに。それは、おきみちゃんの方では、決してそんな意図などあるはずもないのに、わたしにとってはなにより効き目のある呪詛の言葉として、この身の奥深くに隠したはずの黒々とした過去を、強引な力で引っ張り出して、わたしの本性を暴こうとするのでした。
気付いた時には、わたしはおきみちゃんを突き飛ばしていました。少しでも呪いから逃れようと、無意識のうちに働いた本能が両腕を動かしたのでした。思わぬ仕打ちだったのでしょう、尻餅をつく形で後ろに倒れ込んだおきみちゃんは、丸い瞳をさらに丸くして、呆然とわたしを見上げていました。
「ごめんなさい、許して」
限界でした。わたしは早口に詫びると、その場から一秒でも早く逃げてしまおうと、素早く身を翻して走り出そうとしました。けれど振り返るとそこには、濃紺の浴衣を着た亮治さんが立っていました。目と目が合って、一瞬、わたしは怯みました。それでもやはり逃げなければなりませんでした。亮治さんの脇をすり抜けるようにして、わたしはお勝手からお堂の奥へ、ただひたすらに走り去っていきました。
修子、と呼ぶ亮治さんの大声に続けて、お嬢さん、と叫ぶおきみちゃんの心細そうな声がわたしを追ってきました。わたしは振り返らず、もはや立ち止まる方法さえわからなくなって、とにかくお堂の奥めがけて走り続けました。その時、お堂の中には念仏を唱えるおじさまの低い声が響いていました。それすら払いのけるようにして、わたしは走りました。走って走って、ようやく辿り着いたのは、裏庭に面した縁側でした。このお寺で、一番人気のないそこでこそ、わたしはわたしの隠し続けた醜い心のすべてを、陽の光の下にさらけ出してしまえる気がしました。
わたしは泣きました。ぼろぼろになるまでしゃくり上げて、涙粒は次から次へと落ちていきました。この日まで胸の奥にしまっていたものが、もはや抑えようなく溢れ返って、洗いざらい流れ出ていくのが、泣きながら感じられました。だからといって、わたしの過去が許されるわけではない、そのことはよくわかっていました。わかってはいましたが、それでも涙は止めどなく、わたしの両頬を濡らし続けました。
それからどれほど時間が経ったのでしょうか、わたしは変わらず泣き続けていました。風が吹く度こぼした涙は拭われていきましたが、あとからあとからまた新たな涙が追いかけて、泣き声も留まるところ知らずでした。そうやって自らの内に沈み続けていたせいでしょう、わたしは気付きませんでした。背後では、障子がいつの間にそっと開かれて、泣いてばかりのわたしを見守る二つの瞳が、確かにそこに存在してくれていたのです。
「あんた、ここに来てから、ずっとなんか隠してるやろ」
亮治さんの声が、頭上からいきなり響いて、わたしは肩を跳ね上げ驚きました。
「ぼくかて、わかるのやで。そのくらいのこと」
隣に勢いよく座り込んだ亮治さんに、わたしは側から離れようと、再び走り去ろうと試みました、が、情けなさと恥ずかしさとで、震えて力の入らない両足では、上手く立ち上がることもままならない有り様でした。
「言ってしまい。ここで、すべて」
俯くわたしの顔を覗き込むようにして、亮治さんは普段の快活な声とは全く違う、柔らかな声音でそう言いました。わたしがなにも言えないでいると、亮治さんはしばらく沈黙してから、右手をゆっくりと伸ばして、膝の上に捨て置かれたわたしの左手に、いたわるようにそっと重ねてくれました。
わたしは両目を閉じました。染み入るような温もりは、壊れかけた心にとって、どんな言葉より深く寄り添ってくれるようでした。そうしてわたしは、堪忍しました。
言葉が必要でした。わたしに起こった出来事を、亮治さんに、そして誰よりわたし自身に、語らなければなりませんでした。
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