六
季節は、あっという間に流れていきました。山奥のお寺では、同じような日々を繰り返すうち、いつしか真冬も過ぎて、春の息吹がかすかに感じられるようになりました。
わたしと亮治さんとの間にも、わずかながら変化がありました。一緒に暮らすうち、わたしたちは次第に打ち解けて、年齢が近いこともあり、自然と距離を縮めていきました。それは決して男女の間柄というわけではなく、ひとえに純粋な友情としてのものでした。亮治さんから、ことあるごとに「修子、修子」と呼ばれるようになったわたしは、その度、女学校でのお友達と過ごした日々にも似た、過去も未来も関係のない、ただ今だけの幸福を、与えられるだけ十分に噛みしめたものでした。
東京で大きな空襲があったと、お母さまからの手紙を受け取ったのは、三月十日を一週間ほど過ぎてようやくのことでした。家族は無事だったものの、浅草一帯が焼け野原になったとの知らせに、わたしは今この国が戦時下にあることを、久々に具体的な形で思い知らされたのでした。この山奥のお寺での白昼夢のような生活が、わたしにとっては現実からの逃避でしかない、そんなわかりきった事実を、改めて突き付けられたのです。
その夜のことでした。東京の家や学校が爆弾にやられて、血のように赤く激しい炎の中跡形なく焼け落ちてしまう、そんな生々しい夢を見たわたしは、短い悲鳴とともに飛び起きました。ひどくうなされていたようで、身体じゅうにべっとりと汗をかいていました。
一度目覚めてしまうとその後はなかなか寝付けずに、布団の中では居心地が悪くなってしまったわたしは、気分を変えようとお手洗いへ向かいました。お手洗いへ行くには、おじさまの寝室に面した廊下を歩かねばならず、わたしはなるべく足音を立てないよう、一歩ずつ注意して進んでいきました。真っ暗がりの廊下は、しんとしていました。
お手洗いを済ませたわたしは、行きと同じように、少しずつゆっくりと廊下を戻っていきました。けれど、おじさまの寝室の襖の前に、右足の爪先が差しかかった、ちょうどその時でした。部屋の中から、声が漏れ響いてきました。
「あなた」
その声は、本当に小さな声で、かすかに、けれど確かにこの耳に聞こえました。わたしはその場に硬直してしまいました。
「あなた」
二度目は、よりはっきりと聞こえました。亮治さんの声でした。同時にそれは、夢子おばさまの声でもありました。亮治さんの、夢子おばさまの声でした。
わたしは聞きました。聞いてはいけない声でした。そうとわかっていながら、襖の前から動けないわたしは、すべてを聞いてしまいました。そうして最後に聞こえたのは、おじさまの声でした。
「夢子」
縋るような声でした。
それを合図に、わたしはようやく歩き出せました。どうにか音を立てないよう、それでも両足がもつれるほどの勢いで、わたしは逃げていきました。心臓が、狂ったように高鳴っているのが、よくわかりました。けれど気が動転していたせいか、他にはなにも考えられず、自室へ飛び込んだわたしは、襖を固く閉めて後、力が抜けてその場にへなへなと座り込んでしまいました。
わたしはなにを聞いたのかしら。なにを聞いてしまったのかしら。答えの出せない問いかけが、頭の中をいつまでもぐるぐると巡り続けて、余計に眠れなくなってしまったわたしは、その後、結局一睡もできないまま朝を迎えました。
翌日から、わたしは亮治さんとまともに顔を合わせられなくなりました。「修子」と呼びかけられれば返事をし、側に行って会話も交わしましたが、それでも視線だけはどうしても外してしまうのでした。あからさまに露骨なわたしの態度に、亮治さんもきっと異変を感じていたはずですが、彼の方からはなにも問われることのないまま、時間だけが過ぎていきました。
✽
四月の終わりのことでした。午過ぎ、わたしは外に出てお堂の周りを掃除していました。すると奥の方から、亮治さんが大きな声でわたしを呼ぶのが聞こえてきました。ためらいがちに裏庭へ回ると、縁側に並ぶ柱の一本の付け根辺りに、かがんでいる亮治さんの背中が見えました。すぐ後ろまで近付くと、彼は振り返らないまま、地面の一点に向けて人差し指を伸ばしました。そこには、見慣れない若緑の草が生えていました。
「これ、なんやと思う?」
亮治さんが言うので、わたしは渋々ながら隣にしゃがみ込んで、その草をじっくりと観察しました。しゃがんだわたしの膝辺りまで伸びたそれは、先の尖った細長い円形の小さな葉をびっしりと付けていました。
「待宵草かしら」
「あの、黄色い花の?」
「ええ。でも、自信がないわ」
「そうか」
ふう、と一息吐いて、亮治さんは両手を上げてぐっと伸びをすると、そこから落ちるようにして、軒下の大きな
「なんや、雨降りそうやなあ」
わたしは亮治さんの顔を見上げました。亮治さんは西の空に目を向けていました。立ち上がってその方を見ると、先ほどまで一面の青空だったはずが、遠くに見える山の辺りから灰色の雲が立ち込めて、目下に広がる田畑に暗い影を落としていました。
亮治さんはその風景を、黙ったまま睨むように見つめ続けていました。その時、裏庭には、なにやら言葉にしがたい独特の空気が流れていました。それは、知っていることのすべてを白状してしまいたくなるような、ある種支配的なものと言ってもいいものでした。亮治さんがそれを感じ取っていたかはわかりませんが、それでも、彼の鋭い瞳の横顔からは、たとえそんな空気があったとしても全く困らないというような、成熟しきった者しか持ちえない余裕が感じられました。それは、亮治さんがもう十分に大人であることの証でもありました。一方でわたしは、いつまで経ってもいくつになってもどうしようもなく未熟なままだったその時のわたしは、亮治さんとはまるで違って、その空気に抗えるほどの強い意志など持ちようもなく、情けないほど子どもでした。だから、わたしはそれに従うしかありませんでした。
「わたし、聞いてしまったの」
唇は、怯えるほどに震えて、その震えは、指先にまで伝わっていました。それでもわたしは逃げ出せず、顔を隠すことさえできないまま、亮治さんの顔を正面から見つめました。不思議そうに見上げる亮治さんの表情が、視界いっぱいに広がって、けれど焦点を失くした瞳には、それはぼんやりと揺らめいてしか見えませんでした。
「聞いてしまったの、あの夜」
それ以上は、とても言えませんでした。わたしは自分の身体が羞恥のあまり燃えそうなほど熱くなるのを感じました。震えは、今や指先に留まらず、肩から背中から、あちこちがくがくと止まらずに、立っているのももう限界でした。わたしは耐えました。口元を両手で覆い隠して、自分で自分を支えるようにして、精一杯耐え抜きました。
わたしの告白に、亮治さんは最初、両目を大きく開いて驚いた顔をして、けれどそれも束の間、すぐにすべてを察したのでしょう、力を抜いてふっと優しい笑顔になりました。その笑顔に、わたしはなぜだか泣きたいような気持ちになりました。
「そうやったんか。それであんた、この頃、ずっと無愛想やったんか」
わたしは頷きながら、崩れるようにして亮治さんの隣に腰を落としました。座ると同時に、このひと月の間隠し続けていた緊張がひと息にほぐれて、わたしはようやく深い呼吸ができたような気がしました。どうにか震えの治まった身体に、亮治さんが寄り添うようにして腕を回してくれました。疲れ果てていたわたしは、もはや抗う元気もなく、その腕にゆったりと身を預けました。冷たい風が吹き出して、浴衣越しの温もりが心地よく感じられました。
「あんたに悪いことしたな。ちっとも気付かへんかった。ぼくが悪いわ、なにもかも」
わたしの肩をさすりながら、やけにしんみりと詫びる亮治さんの声に、わたしは慌ただしかった心がすっと凪いでいく気がしました。その時になって初めて、わたしはあの夜の出来事を、冷静に振り返ることができました。
「でも……、綺麗な声だったわ」
言ってしまってから、なんてことをしてしまったのだろうと、わたしは身体から一気にすべての熱が奪われたような空恐ろしさで、亮治さんの腕にもたせかけていた背中を、飛び上がるようにして引き剥がしました。けれど時既に遅し、思わず漏れ出たわたしの呟きを、逃さず聞き取ってしまった亮治さんは、わたしが我に返った頃には、沓脱石から転げ落ちる勢いで、腹を抱えて大笑いしていました。
「なに言い出すかと思うたら、あんた」
「違うの、これは」
「ほんまは楽しんでたんとちがう」
「違うったら」
互いの腕を掴み合って大騒ぎしていると、わたしもだんだんおかしくなってきて、亮治さんと一緒になって笑い出してしまいました。もはやなにがおかしいのかもわからないまま、しばらくわたしたちは笑い続けました。そうしてひと笑いし終えて、ふと正気に戻ると、一転して、二人の間に静寂が舞い戻りました。言葉なく、わたしと亮治さんとは、それぞれに空を見上げました。いつの間に、雲は上空を覆い尽くして、陽の光をすべて遮っていました。ぽつ、と、かすかに音がして、見ると、沓脱石の上に置いた左手に、雨粒がひとつ、花開くように落ちていました。
「なあ、修子」
呼ばれたわたしは、亮治さんの方を振り向きました。亮治さんは空を見上げたまま、影の落ちた瞳は、それでも濡れて輝いて見えました。
「戦争が、いつ終わるかは知らんけど。終わってしまう前に、きっとこの寺にも爆弾が落ちるはずや。ぼくにはそれが、目に見えるようにはっきりわかる」
亮治さんは言いきって、それでもなお見上げ続けていました。虚空の中にはもう見るべきものなどなにもありはしないというのに、亮治さんはどこかわからない一点を、ひたすらに見つめていました。わたしはわかりませんでした。彼がなにを言ったのか、なにをわたしに言いたいのか、空を埋め尽くす雨雲の中に、彼は一体なにを見出そうとしているのか、すべてはわかりませんでした。そうしてわからないままに、わたしもわたしで必死に亮治さんの横顔を見つめていると、彼は深く目を閉じ、ゆっくりと項を垂れて、それからもう一度身を起こすと、わたしの方に向き直りました。
「けど、修子はなんも心配あらへん」
雨足は、降り始めとは比べものにならないほど強まってきていました。ざあざあと、激しい音とともに、わたしの両足は濡れていきました。亮治さんの方は、もっとひどく雨を被って、肌に張り付いた浴衣が、青あざのように染まって見えました。
「その時死ぬのは、きっとぼくひとりやから」
そう言ったきり、亮治さんはもう、微笑みもなにも見せてはくれず、髪に隠れた顔からは、固く引き結ばれた薄い唇しか窺えませんでした。それから雨が止むまで、短い夕立ちの間、わたしたちは無言のまま並び座っていました。
その夜の夢で、わたしは見ました。もう十分住み慣れたお堂の中の、普段はおじさましか見かけることのないほとけさまの御前に、亮治さんが仰向けに寝そべっていました。薄暗がりの中、虚ろな目をした亮治さんは、口元からひと筋の血を流して、床に落とされた細い右腕は、真っ赤に染め上げられていました。その手先には、柄の太いナイフが、これでもかというほど鋭くきらめいて、握りしめられていました。傷付いた亮治さんの胸から、赤い血が止まることはありませんでした。それはいつまでも満たし続けました。部屋の中を、わたしの心の中を、底知れない恐怖でいっぱいにしていきました。
目覚めた時、生きた心地がしなかったのは、言うまでもありません。
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