翌朝、わたしは思いのほかすっきりと目覚められました。まだ夜が明けたばかりのようで、廊下に出て雨戸を開けると、遠くの方で空が白み始める様子がよく見えました。

 昨夜亮治さんに渡された夢子おばさまの着物の中から、さんざん迷った挙句、比較的派手さの少ない葡萄色の市松模様のものを選んで、着替えを終えたわたしが居間へ向かうと、おじさまも亮治さんもまだ起きていないようで、お堂の中はしんと静まり返っていました。音を立てないよう注意しながら、お勝手の土間の方から外に出ると、凍てついた冬山の空気が素肌に刺さり、痛みにも似た寒さを感じました。それでもわたしは屋内には戻らずに、そのままお堂の周りをひと巡りしようと、ゆっくりと歩き始めました。

 わたしはその時、きっと、実感を求めていたのだと思います。東京の家から、人々から、そしてなにより日々の生活から、この人気なく、戦争の気配さえない非日常の世界へと逃げ込んで、それでもまだわたしはどうしようもなく生きている、生き延びている、そのことを、この身体でもって感じたかったのです。それだから、肌にしみる寒さは苦しいようで、それでもやはり嬉しいような、寂しいような気持ちをわたしに抱かせるのでした。生きることは、その時のわたしにとって、まさしくそうでした。今にも死へと飛び込みたいほど厳しい現実なのに、それでもやはり途方もない執着を抱かざるをえず、それでいて最後には、後ろめたいほどの孤独を帯びた、先行きの見えない辛さがありました。

 そんなようなことを考えるともなしに考えながら、杉の木々のほの暗い影の中を進んで、ようやく表へ回った時でした。お堂の正面に、見知らぬ人が立っていました。頭には傘を、肩から背にかけてはみのを被って、もんぺ姿のその人は、わたしより頭ひとつ分背の高い、若い女の方でした。

 傘の下の顔をひと目見て、なんて綺麗な人かしら、とわたしは思いました。目鼻立ちの整ったその人は、地味な服装をしているにもかかわらず、東京の女学校のどんなお友達にも見たためしのない、くっきりとした美しさを放っていました。目の覚めるような美人とは、きっとこんな人のことを言うのだろうな、と、わたしは驚いて声も出せないまま、寒さで赤らんだその人の透きとおるような頬を見つめました。見つめながら、同時に、わたしの方もまたその人から見つめられる視線を感じていました。目の前のその人は、大きな茶色の瞳をきらきらと輝かせて、わたしが彼女を見上げる視線とは反対に、まばたきもせずじっとわたしの顔を見下ろしていました。

「いやあ、綺麗なお嬢さんやなあ」

 うっとりとした声で、その人は言いました。それを聞いて、意味がわからず戸惑ったわたしは、思わず「え?」と口に出してしまいました。すると途端に、その人は首を大きく左右に振って、

「ああ、しまった。うち、またやってもうた。思ったことをすぐ口にしたらあかん、て、いっつも母さんに言われとるのに」

 と、まるで謝罪でもするかのように申し訳なさそうな表情で言ったので、わたしは「あの、どうか落ち着いてください」と声がけるので精一杯でした。けれどその人は激しく取り乱したまま、わたしの声さえ聞こえていないようでした。どうしたものか、成す術なく困り果てていると、突然、

「修子さぁん」

 お堂の中から、変にわざとらしい甲高い声が響いてきて、わたしはぎょっとしました。おかしな声でしたが、それが亮治さんの声であることは、すぐにわかりました。

「あれえ、どこ行かはったんやろ。修子さぁん」

「はい、ただいま」

 叫ぶように返事して、わたしは急ぎ足でお堂の中へと戻り、声のする方へ向かいました。外廊下の角を曲がった先に、亮治さんは腕を組んで立っていました。昨日とは違う、けれどこれまた夢子おばさまのものであろう水色の浴衣を着た彼は、その上から緋色の長羽織を纏っていました。なんだかちぐはぐな装いに見えましたが、亮治さんが身に付けると、不思議と着こなせているように思われました。

「どうしたんですか」

「しっ」

 わたしが言い終えないうちに、亮治さんは人差し指を唇の前に立てて、声を潜めて命じました。妙に迫力あるその仕草に、わたしは言葉を飲み込むようにして黙りました。

ふもとの村から、おきみちゃんが来たのやろ?」

「おきみちゃん?」

 わたしは小声で聞き返し、首を傾げました。表にいた綺麗な女の人は、おきみちゃん、なんて呼ぶにはふさわしくない、もっと大人の女性に見えたからです。

「老けて見えるけどな、あの子、まだ十五かそこいらやで。そんで中身は、もっとお子ちゃまや」

 わたしは驚いてなにも言えなくなってしまいました。早朝から雪山をひとりで登ってきたあの女の人が、わたしより二つも年下だなんて信じられませんでした。彼女のたくましさを思うと、それとは正反対に、いくつになっても頼りのない自分が恥ずかしく、情けない気持ちでいっぱいになってしまいました。そのまま立ち尽くしていると、亮治さんがふふんと笑って、わたしの耳元に口を寄せ、

「あの子な、ぼくのこと、ほんまもんの女やと思うてるのやで。威一郎の若妻かなにかと思い込んでるのや」

 ごく小さな声で囁いたので、

「嘘でしょう」

 わたしはようやくもって声が出せました。あまりにひどい冗談に、思わず苦笑さえしてしまいました。けれど亮治さんは得意顔になって、

「ほんまやて。見ててみ」

 挑むように言って、表に向かってすたすたと歩き始めたので、わたしは少々戸惑いながらも後に続きました。背筋を伸ばして悠々と進むその後ろ姿を眺めながら、わたしは無意識のうちに、またしても夢子おばさまの影を重ねて見ていました。

「あら、おきみちゃん。こんな朝早うから、ご苦労なことやねえ」

 先ほどの声音で、ゆったりと話し出した亮治さんの、その喋り方を前にして、わたしは身震いする思いがしました。それはもう、似ているだとか、そんな程度のものではありませんでした。声そのものは全く違う、しかしそれは、そっくりそのまま、夢子おばさまの喋り方でした。

「奥様、おはようございます」

 おきみちゃん、と呼ばれた、美しい顔のその人が、ぱっと面を上げたかと思うと、すぐに深く頭を下げました。その慌ただしい動きを、わたしは呆然と見るばかりでした。

 奥様! わたしは心の中で叫びました。目の前の、とても少女とは信じられないほど成熟して見えて、しかし言われてみればこの上なく純粋な瞳の輝きをしている、おきみちゃんというこの少女は、女の装いをした亮治さんの顔をまっすぐ見上げて、奥様、と呼びかけたのでした。その清々しいまでに素直な響きに、わたしはひどく驚くとともに、笑いたいような、泣きたいような、なんとも言えず複雑な気持ちになりました。

 そんなわたしをよそに、亮治さんは高い声を保ったまま、手馴れた様子でおきみちゃんと朝の会話を楽しんでいました。亮治さんが繰り出す質問に、おきみちゃんは逐一はきはきと答えて、そういう様子を見ていると、確かにまだ子どもなのだわ、と、知らないうちにおのずと納得している自分がいました。そんな風に二人の会話を垣間見ていると、亮治さんがおもむろに振り返り、わたしの背中に手を回して、

「そうそう、この子が前に言うた、姪の修子さん。東京から、昨日ここへ着いたとこやの」

 さも事実のようにさらりと説明したので、わたしはなるべくまごつかないよう心がけながら、「清野修子と申します」と言って軽くおじぎしました。

「そうやったんですか。このお方が」

 おきみちゃんはびっくりしたような顔でそう言って、再びわたしの顔を見つめました。あまりにまっすぐな眼差しには、その美貌も相まって、空恐ろしささえ感じさせるような気迫があり、わたしは緊張のあまり抑えようなく頬を染めてしまいました。だから、おきみちゃんが次に述べたことには、到底理解しがたいものがありました。

「ああ、でも、見れば見るほど、なんて綺麗なお嬢さんなんやろ。東京いうとこは、やっぱり、こないに綺麗なお嬢さんばかりいやはるんやろか」

 買いかぶりとしか言いようがないのに、おきみちゃんが本気でそう思っているのだろうことは、言葉の端々から感じ取られました。まるで自分の美しさには自覚のない彼女を前に、わたしはなにを言っても上手く伝えられない気がして、ただただ頭を振るしかできませんでした。

「綺麗な奥様に、綺麗なお嬢さん……」

 おきみちゃんは亮治さんとわたしを交互に眺めて、うっとりとひとりごちました。

「お山の上の、このお寺にいる時だけは、戦争やなんて嘘みたい。ああ、ここはまるで、浄土のようやなあ」

 両手を合わせ、拝むでもするように呟いたおきみちゃんに、わたしの隣で佇んでいた亮治さんがぷっと吹き出し、そのせいで堪えきれなくなったのか、盛大に笑いこけてしまいました。

「浄土て。相変わらず、変な子やなあ、おきみちゃんは」

「ああ、うち、またやってもうた」

 恥ずかしそうに顔を隠したおきみちゃんに、それでもなお亮治さんは飽きずに笑い続けていました。そんな二人のおかしな様子を見るうち、わたしの心も次第にほぐれていって、少しではありましたが、口元に自然と笑みを浮かべられました。

 おきみちゃんの言った、浄土、という言葉は、今から思い返せば、ぴったりの表現だったかもしれません。そのくらい、あの時のあの場所には、きっとそこでしか許されなかっただろう、静けさにも似た豊かな時間が流れていました。

 おきみちゃんは、少ない時でも三日に一度は山を登って、わたしたちのところへお米や野菜を届けに来てくれました。それらは、日を追うごとに少なくなっていく配給分の食糧とは別に、おきみちゃんのお家であるところの農家の井山さんが、特別にこっそりと分けてくれていたものでした。

「いいのかしら。こんなにたくさんいただいて」

 お正月も過ぎた、ある日の夕暮れ、お勝手の土間で、心配になったわたしは亮治さんに訊ねました。すると亮治さんは、表情ひとつ変えないまま、

「いいもなにも、あの子の家がくれる言うてくれてるんやから、ええに決まってるやないか。あの家は昔からここの檀家だんからしいし、好きでそうしてくれはってるんやろ」

 まるで決まりきったことのように言いました。

「でも、なんだか悪い気がして」

「悪いことなんかなんもあらへん」

「でも」

「あんな、修子さん」

 強めの声で呼びかけられて、わたしはびくりとしました。おそるおそる顔を上げると、亮治さんは鋭い目をして、わたしを見下ろすようにして睨んでいました。

「はっきり言おうやないか。そうや。きっと、あんたの思うてる通りや。こないな時代やていうのに、ぼくも、あんたも、威一郎も、こんな山奥に逃げ込んで、戦争なんて露知らず、毎日のうのうと暮らしてる。せやから、ここにおるぼくらは、皆、ずるや。三人揃って、皆、ずるうてかなんのや。それが心苦しいいうことやろ、あんたの思うてるのは。ちがうか?」

 わたしはなにも言えず、動くことさえかないませんでした。この場所へ来てからひと月あまりの間、わたしが言葉にできないながらもなんとなく抱き続けていた、後ろ暗い気持ちのすべてを、亮治さんは余すことなく、簡潔ながら容赦のない言葉で言い当てたのでした。思いがけず糾弾された形となったわたしは、今にも泣き出したくてたまらず、実際、目元に向けて抑えきれず熱がこみ上げてくるのが、じんわりと感じ取られました。けれどもわたしは、涙を流せませんでした。ここで涙を流してしまったら、それは、自分の罪をさらに塗り重ねてしまいかねない行為だと、誰に言われるまでもなく、嗚咽を飲み込むことで締まって苦しい喉元の痛みが、戒めとなって教えてくれたからです。

「けどな、修子さん」

 亮治さんに再び呼ばれて、わたしは瞼を深く閉じました。俯いて、下唇を噛みしめて、なにかに耐えようとしました。それでも、開いたままの両耳の穴から、みぞれのように冷たい優しさを含んで、亮治さんの声は流れ込んできました。

「それでもぼくらは、生きてるんやから。どんなにずるうて、卑怯で、それでも、生きてるんやから。その限りでは、生きることを我慢したらあかん。ここまで生き延びたんや、どんなに恥さらしでも、あさましうても、生き残らなあかん」

 少しばかり迷いを含んだのか、声は揺らいで聞こえました。けれど亮治さんは、きっぱりと言いきりました。

「生きる限り、生きることをあきらめたらあかん」

 それでこそ人間やろ、と、最後に亮治さんは言って、それまでの凄みが嘘のように、軽やかに笑いました。瞼を開くと、目の前に、明るい表情の亮治さんが見えました。しかしながらその瞳には、少なからず影が差していることに、わたしはとうに気付いていながらも、その場で見てしまうのは嫌で、すぐに目線を下に向けました。それからは互いに背を向けたまま、わたしと亮治さんは、会話なく夕食の支度を続けました。

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