四
夕食の席で、おじさまはわたしのよく知る優しいおじさまに戻っていました。
「修子ちゃん。遠慮せんと、たんと食べや」
はい、とわたしは答えて、ご飯をひと口含みました。けれど食卓には張り詰めた空気が漂っていて、とても味わうことはできませんでした。
おじさまを挟むようにして、わたしと亮治さんは向かい合って食べていました。その亮治さんについて、おじさまの口からはなんの説明もないまま、食事は早々と終わってしまいました。おじさまはその後、ほとけさまの御前で夜のおつとめをして、それからは他になにをすることもなく、九時までにはお休みになってしまいました。
田舎の山の夜は、雪はあっても想像していた以上の暗がりで、ランプの明かりもその闇には負けてしまいそうでした。やるべきことをすべてし終えて、ひとり自室に戻ったわたしは、他にすることもないので寝てしまおうと、布団を敷きました。するとそこへ、
「入ってもええ?」
障子にすらりとした人影が透けて見えていました。潜めた声は亮治さんのものでした。わたしが「どうぞ」と言うと、亮治さんは障子を静かに開いて、足音も立てずに入ってきました。片腕には、なにやら大きな風呂敷包みを抱えていました。
「これ、ぎょうさんあるさかい、好きなの選び」
解かれた風呂敷の中には、
「あんた、ここにおる間は、もんぺなんか着るのやめて、思う存分おしゃれしたらええわ。大丈夫。滅多なことでもない限り、軍人も警察もここまで登ってきたりせえへん」
これなんて似合うんとちがうやろか、と亮治さんは青地に牡丹柄の着物を手に取って、わたしの肩にあてました。自分にはまだ到底着こなせなさそうな、洗練されてお洒落な着物に、それでもわたしはされるがまま、身をこわばらせて押し黙っていました。その様子がおかしかったのでしょうか、亮治さんは抑えきれず吹き出してしまいました。おかげでわたしも緊張を解くことができました。釣られて笑い始めると、こんな状況だというのに、なんだか楽しくて仕方がなくなってきました。脳裏に、女学校のお友達と過ごした朗らかな日々が、遠い昔の思い出のようにそっと浮かび上がりました。
「これな、全部、夢子の」
夢子、とおばさまの名前が再び亮治さんの口から出て、わたしの笑い声はぴたりと止まりました。着物の山にもう一度目をやると、なぜ言われるまで気付かなかったのだろうと、自らの勘の悪さが呪わしくさえ思われました。並べられた沢山の着物には、それぞれに趣の異なる魅力がありましたが、確かにどれをとっても夢子おばさまによくお似合いだろう上品さがありました。
「夢子が威一郎と別れたあと、別の男のとこに行ったんは、さすがにあんたも知ってるやろうけど。あの騒動があってから、夢子、勘当同然の扱いになってな。まあ当然やわな、てぼくは思ったんやけど、父親も母親も、結局はあの女に甘いとこがあってな。こっそり行って様子見てきてくれへんか、て、ぼくに頼みよって。気乗りせえへんから、しばらくは無視してたんやけど、そういうとあの女、着物やら宝石やらどないしたんやろ、て気になり始めてしもて。それで夢子の男の家に行ってみたらな、これがえらいボロ屋敷でな、中から、あのけばけばしかった夢子が、小汚い格好で出てきよって。ぼくが金でも持ってきたと思ったのかしらん、あほみたいに嬉しそうな顔見せてな。せやから、せびられる前に訊いてやってん。『あんた、持ってたもんどないしたん?』て。そしたらあの女、なんて言うたと思う? 『威一郎さんとこに全部置いたまま出てきた』やて。これはまあ、ほんまもんのあほや、て思うたわ。香水やら靴やら、あれほど好きでぎょうさん集めてたのに、男ひとりに恋したからって、みんな捨ててしまえるんやから。ほんま、あほらしうてかなんと思わへん?」
一度も詰まらず、すらすら言葉を続ける亮治さんは、まるでひとりでお喋りしているかのようでした。わたしはまともに考えることもできずに、
「でな、それやったら、ぼくが直接行って取り返してこよう思うて。せやけど居場所もわからへんし、どないしたもんやろか、て思うたんやけど、そしたら夢子がな、『あの人の居場所やったら知ってる』て言うてん。ぼく、ほんまにびっくりして、『なんであんたが知ってるん?』て訊いたら、『手紙が来た』て。嘘や、ありえへん思うたけど、これがほんまやってん。ご丁寧に『こちらは元気でやっております。いつでもお立ち寄りください』とまで書かれてあってな。正気疑ったわ。他の男のとこへ逃げた女房に、そんな手紙送るなんて、よほどのあほなんとちがう、て」
聞きながら、わたしは声こそ出しませんでしたが、きっとその時の亮治さんより驚いていました。あのような形での離婚の後に、おじさまと夢子おばさまの間に手紙のやり取りがあっただなんて、容易には信じ難い話でした。
「それで俄然興味湧いてな。去年の秋、ひとりでここまで登ったというわけ。そしたら威一郎、初めはぼくの顔見て機嫌好うして、にこにこしながらお茶淹れてくれたんやけど、『夢子の持ち物全部返してください』言うた途端、鬼みたいに顔真っ赤にして怒り始めてな。『あれは全部私の持ち物や』の一点張りで、話もまともに通じへん。これはあかんわ、思うて、あきらめて大人しう山下りて。でも、下りてる途中でな、だんだんおかしくなってきて。夢子も夢子であほやけど、威一郎はそれ以上に、どうしようもないあほなんや、て、しみじみ感じて。それで、笑いも止まらんようになってしもうて」
思い出して再び笑い始めた亮治さんを前に、わたしは戸惑うばかりでした。話を聞いた限りでわかったのは、亮治さんはおじさまよりはむしろ夢子おばさまと近しい間柄のようだ、ということだけで、だからといって目の前の人の正体はさっぱり見当もつかないまま、わたしは亮治さんの少しばかり狂ったような笑顔を見つめ続けました。するとそのうち、亮治さんはわたしの視線に気付いたのか、笑うのをやめてこちらを振り向いて、じっとわたしの瞳を覗き込みました。
「あんた、ほんまにぼくのこと覚えておれへんのやなあ」
呟きながら亮治さんは、ひどく残念そうな顔を見せました。それでもわたしはなにも思い出しはしませんでした。その場を取り繕う言葉も思い付かないまま、わたしは亮治さんの瞳を見返しました。すると亮治さんは、
「それもそうやな。あんた、えらい小さかったもんな」
言いながら、首を傾けて天井を仰ぎ、そうかと思えば、そのままわたしの布団に倒れ込んでしまいました。なんのためらいもなく寝転ぶ亮治さんに、わたしはあっけにとられながらも、変なところで冷静になってその姿を眺めていました。両目を閉じて眠るふりをする、その表情には、見たためしは一度もありませんでしたが、きっと夢子おばさまもこんな風に眠るのだろうな、という安易な連想を許すものがありました。
「威一郎と夢子の祝言の時のことは、覚えてる? あの時、夢子のきょうだい言うて、同じような赤い振袖着た子どもが三人おったの、覚えてへん?」
亮治さんの言葉を受けて、わたしの頭の中に、ひとつの鮮やかな光景がよみがえりました。十年以上も前のあの祝言の席で、夢子おばさまの神々しいまでの美しさとは別に、目を奪われる方たちがいました。ちょうどわたしの座る向かいに座った彼女らは皆、金糸の刺繍が目に眩しい、明るい朱色の振袖を身に着けていました。その方たちは夢子おばさまの妹君で、上の二人は女学生、末っ子の方は当時のわたしとそう変わらない年齢の印象があった記憶がありました。ただ、どんな顔をしていたかまでは覚えていませんでした。
「あの三人の、一番小さかったんが、ぼくやで」
「ええっ、でも」
予想だにしない言葉に、わたしは驚きすぎて間髪入れず声を上げました。それでも亮治さんは布団に寝転がったまま、額にかかった髪を少し掻き上げるようにして、にっこりと不敵に微笑みました。
「ほんまは、ぼくのひとつ上に男の子がおってん。女ばかりのところにようやく生まれた男の子やったから、家族揃ってえらい可愛がってたらしいで。けど、三つになるまでに死んでしもうてん。そないなことがあったもんやから、ぼくは生まれてからつい最近まで、女物の着物をしょっちゅう着させられてたんや」
改めて、わたしは夢子おばさまの浴衣を纏った亮治さんの全身を眺めました。いくら細いとはいえ、どこから見ても男の人のものでしかないその身体が、不思議と女物の浴衣を着こなしているように見えるのには、そういった背景があったのかと、わたしは妙に納得してしまいました。
「そのせいか知らんけど、ぼくは小さい頃からなにかにつけて、夢子に似てる、夢子に似てる、て言われ続けてなあ。近所のおばさんなんかも、亮ちゃんは夢子さんに似て綺麗なお顔やねえ、て、今でも会う度言わはんねん。うっとうしうてかなんで、ほんま。どいつもこいつも、いつまで経っても、夢子、夢子、夢子て」
亮治さんは半笑いのまま、冗談でも言うようにさらりと付け加えましたが、その語気には幾分刺々しさが隠しきれず滲み出ていました。お勝手のかまどの前で、「夢子なんかあかんわ」と言った亮治さんの様子が、重ねて思い出されました。どうやら亮治さんは、実のお姉さまであるはずの夢子おばさまのことが、よほど嫌いなのだろうということは、いくら鈍感なわたしでも、訊かずとも察せられました。けれど、その理由はさっぱりわかりませんでした。かといって、話ついでに訊ねるのはさすがに気が引けて、わたしは再び黙り込むしかできませんでした。なんとなく気まずくて、わたしは明かりのついたランプに目をやりました。ぼんやりとした明るさのそれは、まるでその時のわたしの心の内のように、不安げで自信のない、弱々しい光を放つだけでした。
「なあ、あんたは、あの祝言の時の威一郎の顔、覚えてる?」
静かな寝室に、亮治さんの声がふわりと響いて、わたしに問いかけました。それは、先ほど夢子おばさまの話をしていた人と同じ声とは思えないくらい、優しい声音でした。驚いて亮治さんの顔を窺うと、彼は薄く目を開いて天井をぼんやり見上げ、夢の中にでもいるかのような表情を浮かべていました。わたしは少しばかり不審に思いながら、黙ったまま頭を振りました。すると亮治さんは、ふっと息をひとつ吐いて、
「いつもどおりの澄まし顔の夢子の隣で、あの人、緊張してるんが丸わかりの顔してた。眉毛も目も口元も、かちこちに固まってしもうてて、かわいそうなくらいやった。それやのにな、あの人、頬っぺただけは熱でも出たみたいに、真っ赤っかに染まっててん。それ見てな、ぼく、子どもながらにわかってん。ああ、この人、夢子にひと目惚れしてしもうたんやな、て。どうしようもなく惚れてしもうたんやな、て」
説明する口ぶりは、まるで今目の前にその光景を見ているかのような、熱っぽい臨場感を帯びていました。そのように詳らかな説明を受けても、わたしの方では全く記憶が戻ることはありませんでした。むしろわたしは、自分の記憶の中では美しいことこの上ない夢子おばさまのお顔が、亮治さんの口からは「澄まし顔」のひと言で片付けられてしまったことに、不満にも近い違和感を覚えました。それでもむきになって反論するなんてことはしませんでした。亮治さんは夢子おばさまが嫌いなようだし、それに、そもそも他人というのはどんな人でも、自分とは違うものの見方をするものなのだと、その時のわたしは、痛いくらいによく思い知っていました。
「あの時、威一郎の顔見ながら、ぼく、こんな風に思うた。こないにかわいらしい人が、この世の中に、ほんまにおるんやなあ、て」
わたしは亮治さんの顔を見つめ直しました。薄く笑みを浮かべたその顔は、けれど両の瞳だけには憂いを帯びて、涙のような光を湛えていました。
「自分でも、不思議なくらい、そう思うた」
亮治さんの声は、消えそうな小ささで呟かれて、それなのに、わたしの耳にしっかり届きました。それはまるでひとつの雨粒が、凪いだ海の面にぱっと落ちたかのように、わたしの心に印象深く残りました。
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