三
おじさまがわたしのために用意してくれた、お堂の裏側の六畳のお部屋に通されて、荷解きをしていると、その時のお母さまの様子がふと思い出されて、来たばかりというのに東京の家が恋しく思われました。途端に、寂しさと惨めさとが胸の奥からじんわり広がって、あまりの苦しさに、わたしは畳の上に身を投げ出して、涙を堪えるようにぎゅっと両目をつむりました。色々なことを思い出してしまうのが怖くて、なにも考えないよう心の中でひたすら数を数えるうち、長旅の疲れもあってか、わたしはそのまま眠りついてしまいました。ようやく目が覚めた時、既に日が暮れて、五時を過ぎていました。いけない、せめて夕食のお手伝いくらいはしなくては、と慌てて立ち上がったわたしは、急いでお勝手へと向かいました。
するとお勝手には、先ほどのあの人がいました。土間にしゃがみ込んでかまどの火をいじっていたその人は、浴衣一枚の姿のままでした。伸びた髪が影を落としている、その横顔は、やはり夢子おばさまにそっくり似ていました。
「あ、やっと起きはった」
呆然と立ったままのわたしを、その人は見つけて、再びからかうように言いました。わたしはなんだかばつの悪い思いがして、目線を逸らしながら、
「寒くはないのですか?」
どうにか訊ねられました。声は意図せずつっけんどんな感じを帯びて響きました。
「全然、平気。ぼく、暑がりやから」
カラカラと軽い笑い声を含ませながら、その人はなんでもないように言いました。けれどいくら暑がりとは言え、こんなに寒い冬山の中では、やはり浴衣姿は異常なものにしか見えず、まして今は戦時中で、おまけに女物の浴衣で、などなど、次から次へと疑問は尽きずに湧いて出てきました。それでもわたしはひと言も言い出せないまま、その場から一歩も動けずに、視線を落として立ち尽くしていました。夢子おばさまの浴衣の黄色が、その派手で鮮やかな色味が目の端に映って、それに引きずられるようにして瞳を動かすと、丈の足りない着物の裾から、その人の白い足首がちらりと見えて、その細さには男らしさの影はちっともなく、むしろ儚げな雰囲気を漂わせていて、そんなところさえおばさまに似ているように思われました。
「ぼくもな、威一郎とおなじ」
火の方を向きながら、その人は急に喋り出しました。その時、きっとわたしとそう変わらないだろう若さのその人が、ずっと年上のおじさまのことを「威一郎」なんて呼び捨てにする奇妙さに、わたしは変にどぎまぎしてしまいました。
「肺が悪うて、兵隊なられへんの」
あっけらかんとその人は言って、わたしに笑顔を見せました。夢子おばさまの微笑みそのままのそれに、わたしは依然どぎまぎしたまま、「それなら、やっぱりなにか着た方が」と言おうとして、けれどその前に、
「ていうのは、全部、嘘」
その人は言って、同時に、綺麗な弧を描いていたはずの口元を、片方だけくっと歪めて、ちょっとばかり不良めいた、ニヒルな笑顔に変わりました。その笑顔を見て、ようやくわたしははっきりと認識しました。ここにいるのは、決して夢子おばさまではない、とてもよく似ているけれど、なにか決定的に違うものを持つ人だ、ということを。
「今年の初めに徴兵検査受けさせられたんやけど、その時に、ひと芝居打ってん。あそこが痛いここが痛い、どこもかしこも痛うてかなわん、毎日熱が出て、咳も止まることあらへん、四六時中しんどい、もうきっと死ぬんや、て、涙流しながらかすれ声で言ったら、医者もほんまにあほなもんで、ろくに診察もせんと、これはもうじき死によるから、はよ家帰らせてやりなさい、やて。ぼく、もう、おかしくてたまらんで、その場で思わず吹き出しそうになったんやけど、なんとか堪えて、無事、逃げてん。こんな具合に上手くいくなんて思いもよらんかったから、帰る途中で、もしかしてぼくほんまに病気とちがうやろか、なんて思ったりして。せやから、まあ、結局は、病気と変わりないようなもんやね。ああ、おかし」
喋りながら、その人はだんだんと整った顔を崩していって、最後には声を出して大笑いしていました。その笑い方は、夢子おばさまならきっとしないであろう、豪快で、少しばかり下品なものでした。それでもなお、独特の艶っぽさがあるようにも、なぜか感じられました。
「ぼくな、これで一応、
威一郎、と、その人は今一度言いました。加えて、話の内容から察するに、どうやらおじさまとは一年以上前から知り合いのようで、目の前のその人の存在は、説明を受ければ受けるほど謎を深めていくようでした。ますます混乱して、耐えかねたわたしは、その人の正体を訊ねてしまおうと、口を開きました。けれど声の出る前に、その人がぱっと振り向いて、
「修子て、ええ名前やね」
突然、なんの意図も含まず呟かれたそれは、まるで「花がきれいだね」とか「風が心地いいね」とか言うみたく、驚くほど自然にわたしの耳に届いたのでした。そのあまりに裏表のない声音に、わたしは「いいえ、そんな」と否定しながらも、頬が少しずつ熱を帯びてくるのを感じないではいられずに、俯いて顔を隠しました。
思えば、名前を褒められたのは、これが初めてのことだったような気がします。修子だなんて、それまでわたしは、どこにでもある平凡な、その上取るに足らない地味な名前だと、自分の名前ながらあまり好きではありませんでした。
「わたしは、できるなら、もっと可憐な名前の方が」
そう、たとえば、お母さま。華子というそのお名前は、お母さまの西洋風の明るさのあるお顔立ちとも相まって、たいそうお似合いでした。それから、わたしのお父さま方の従姉妹にあたる、蘭子お姉さまに、麗子お姉さま。そして、それから。
「夢子、とか?」
はっとして、わたしは顔を上げました。その人がわたしを見る瞳と、わたしの瞳とが、ぴったり合いました。夢子、とその人は言いました。すぐ目の前で言ったのだから、聞き違いようがありません。その人は、夢子、と、おばさまの名を、確かに口にしたのです。
「いや、夢子なんかあかんわ」
わたしがなにも言えないうち、その人は片手をひらひらと振って、強い口調で言いました。
「あんな浮ついた名前はあかんわ」
その言い方は、馬鹿にするようでも、呆れるようでもあり、また、けなすようでさえありました。ここに来て、わたしはようやく訊ねました。
「あなた、一体、誰なの?」
まばたきするのも忘れて、食い入るようにわたしはその人の顔を見つめました。その人の顔の、奥にも手前にも現れる、どうにも避けがたく目に捉えてしまう夢子おばさまの面影を、ひたすらに見つめました。
「あれ、そうか。わからへんか」
心底意外そうに、その人が驚いて言うので、それにまたわたしはびっくりしてしまいました。もしかして、わたしはこの人を、知っている? いいえ、そんなはず。
「三倉亮治、言います。よろしゅう」
差し向けられた完璧な笑顔に、わたしは、とても笑うことなどできませんでした。三倉。それこそは、夢子おばさまの旧姓でした。
「亮治」
後ろから、突然低い声が響いて、わたしはひゃっと短く叫んで飛び上がりました。振り返ると、そこにはおじさまが立っていました。
「夕飯、まだか」
低い声のまま、おじさまはそう訊ねました。心なしか、そのお顔は怒っているように見えました。
「はいはい、ただいま」
かまどの前のその人が、うっとおしそうに返事すると、おじさまはすぐ立ち去ってしまいました。ようやくその時になって、わたしは自分がなにをしにお勝手まで来たのか、思い出しました。土間に降りると、急いで夕食作りを手伝い始めました。
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