わたしのお母さまの五つ年下の弟である威一郎おじさまが、夢子おばさまと結婚したのは、昭和七年の春のことでした。既に仏門に入っていたおじさまはその時二十五歳、対して、大阪の旧家の箱入り娘だったおばさまは、まだ二十歳にもなっていませんでした。

 祝言は、おじいさまのお寺で挙げられました。わたしは数えで六つになったばかり、なにが執り行われているのかも正確にはわからないまま、両親に連れられお式に参加しました。幼い頃のことでしたから、当然、その時の記憶はあまり定かではありません。けれどあの時の、白無垢を着てお化粧をして、おじさまの隣にちょこんと座っていた夢子おばさまの美しさだけは、今も焼き付くように覚えています。綺麗な人というのは、こういう人のことを言うのだと、まるで本物のお姫さまでも見るみたいに、自分でも気付かぬうち、夢中になって見つめてしまっていました。

 お二人はどちらも穏やかな性格をしていたからでしょうか、親の決めた結婚とはいえ、日頃からたいへん仲のよい夫婦だったそうです。それが、九年目の夏、なんの前触れもなくすべてが変わってしまったのは、一体どうしてだったのでしょう。

「私、恋をしました」

 目に涙をいっぱい溜めて、夢子おばさまはおじさまに告白したそうです。

「許して、とは言いません。でも、どうかお願いですから、私があの人のもとへ行くことだけは見逃して欲しいのです。たとえお体が弱いとはいえ、あなたには、私ひとりが消えたとして、失うものはなにもありません。だけどあの人は、お金もなく、身寄りもなく、その上あなたよりよほどひどく健康を損ねています。だから、あの人には、私しかいないのです。私が、初めて恋をした、あの人には、私以外なにもないのです。ですから、どうか私の勝手をお見逃しください」

 これはすべて、お母さまから聞いた話なので、どこまでが本当なのかわかりません。けれど夢子おばさまは、その夏が終わる前に、本当におじさまを置いて、恋する人のところへ去ってしまったのです。

「ひどいわ、夢子おばさま」

 話を聞いた当時のわたしは、驚きと怒りと困惑とで、思わずそうこぼしてしまいました。けれども意外なことに、お母さまは静かに首を横に振ったのでした。

「夢子さんはね、恋をしてしまったの。だから、すべては、仕方のないこと」

 わたしはわけがわかりませんでした。おじさまの実の姉であるところのお母さまが、そんな風に夢子おばさまの肩を持つだなんて、気でも狂ったのかしら、と半ば本気で思いました。

「修子に、お母さまの秘密のお話をしてさしあげよう。これは、お父さまにも、内緒」

 お母さまは、ひどく疲れきっているのに、いたずらっ子のように微笑みました。

「修子が生まれるよりも前、お母さまにも、夢子さんと似たような気持ちを持ったことがありました。でも、お母さまのそれは、本物の恋になる前に、あっけなく終わってしまいました。それだから、お母さまは今こうして、お父さまと修子と三人、幸せに暮らせています。けれど、夢子さんはきっと、恋を始めてしまった。そうしたら、あとはもう燃え尽きるまで、追い求めるしかできないのですよ」

 瑣末な昔話でもするかのように、お母さまはさらりと言いましたが、わたしには、なにがなんだかさっぱりでした。ただ、その時肝に銘じておいたのは、恋というものはひどく恐ろしい、得体の知れないものなのだ、ということでした。

 結局、おじさまとおばさまは、その年のうちに離婚することになりました。その際、おじさまは事のあらましを表沙汰にするのをひどく嫌って、夢子おばさまの罪を問うこともしないまま、ひとえにおじさまの都合という嘘の理由でもってのみ、別れを受け入れたのです。

「俗世を離れ、一から修行をやり直すことに決めました。元はと言えば戦地に赴くはずのこの身、それが叶わない分、為すべきことが他にあるのではと、以前より悩み、このほど決意いたしました。つきましては、どうか皆様に私の勝手をお許しいただきたい」

 急遽開かれた親族会議の場で、誰もが真相を知っているにもかかわらず、おじさまはきっぱりそう述べたそうです。そのあまりの堂々とした態度に、誰ひとり反論のしようもなく、それきりおじさまは皆の前から姿を消してしまいました。

 お母さまのもとに手紙が届いたのは、それから一年後のことでした。縁あって田舎の寺を継ぐことになったと、簡潔な報告だけのその手紙の、封筒裏の住所を見た時、お母さまはなんだか複雑そうなお顔を一瞬見せましたが、すぐに笑顔を取り戻し、「こんな山奥なら空気もきれいで過ごしやすいことでしょう」と言うに留まりました。

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