金魚草
有谷帽羊
一
わたしが東京の生家から、京都の威一郎おじさまのお寺へひとりで疎開したのは、十七歳の冬、終戦の前年の十二月のことでした。
その日は雪が降っていました。バスを降りると、初めて見る田舎の山景色は雪に覆われて、風がひどく冷たかったことをよく覚えています。そこで降りたのはわたしひとりで、閑散としたバス停の前に立ちつくし、どうにも心細く待ちぼうけていると、やがて向こうから雪を踏みしめるかんじきのザリザリとした音が聞こえてきました。
「修子ちゃん、よう来たね」
顔を上げて見ると、目の前に、おじさまが立っていました。背の高いおじさまは、ずっと前に東京で会った時と同じに、どこかほの暗さのある、彼独特の笑顔を浮かべていました。懐かしいそのお顔に、ふっと気が緩んだわたしは、ほとんど泣きそうになりながら、
「先に来て、待ってくださっていると聞いていたのに」
子どものわがままのように言いました。
「かんにんな」
おじさまはもう一度笑うと、わたしの荷物をすべて引き取ってくれました。
バス停からお寺に辿り着くまで、わたしはおじさまの腕にしがみつくようにして歩きました。慣れない雪の田舎道をおずおず進む不器用なわたしに、おじさまは文句ひとつ言うことなく、歩調を合わせゆっくり伴ってくれました。そうして歩いていると、まだほんの幼い頃、お父さまに連れられて色々なところを散歩した記憶がふとよみがえって、凍えるほどの寒空の下というのに、なんだか恥ずかしくなって身体が急に熱くなるような気がしました。
山裾の畑や田んぼ、その先の集落も抜けると、あとは枯れ木と雪ばかりの山道が、奥の方まで長いこと続きました。激しい上り下りの繰り返しに、体力のまるでなかったわたしはおじさまから手を離さないだけで精一杯で、どこを歩いているのかもわからないまま、ようやくお寺の石段が見えた頃には、息が切れて疲れきっていました。
残った力を振りしぼり、どうにか上りきった先に現れたお寺は、お母さまから聞いていたとおり、いいえ、それ以上にひどくみすぼらしい、小さなお堂がひとつあるばかりの、実に貧相なものでした。お寺といえばおじいさまとおばあさまのいる京都市内の大寺院しか思い浮かばなかったその頃のわたしは、目の前の光景に、わかっていたとはいえ少なからぬ衝撃を受けました。同時に、三年前おじさまに降りかかったある悲しい出来事について思い出されて、それがきっかけとなっておじさまはこんな山奥に身を隠すようにして篭ってしまっている、その事実に胸が痛む思いがしました。
おじさまに促されるまま、お堂に上がってほとけさまの御前に正座して、今日からどうぞよろしくお願いします、と挨拶も兼ねてお祈りしていると、奥の廊下の方から、パタパタと急いだ様子の足音が響いてきました。おじさまの他にここに人がいるとは露ほども思っていなかったわたしは、驚いて音のする方に顔を向けると、視線の先の障子がスッと開かれて、「あら」という声とともに、その人が姿を現しました。
「お
わたしを見つけて楽しそうに叫んだその人の、鼻筋の通った端正な顔をひと目見て、わたしは全身を凍りつかせてしまいました。
「ゆめ……」
夢子おばさま、と、いるはずのないその人の名前を呼んでしまう前に、どうにか留められたのは、目の前の人の声のおかげでした。夢子おばさまに瓜二つの顔をして、その上夢子おばさまがいつかの夏に着ていらした黄色の浴衣を身に纏ったその人は、けれど声だけはおばさまと違って、少し低めの艶やかな声をしていました。
「東京からお雛さんが来はった」
その人はわたしをまっすぐ見下ろしたまま、わらべ唄でも口ずさむかのように軽やかに繰り返しました。わたしはその時、「お雛さん」とからかわれたことを恥ずかしく思う心の余裕もなく、幽霊でも目の当たりにしたかのような、まるで信じられない気持ちで、ただただ恐ろしさだけを感じていました。
「
隣に座っていたおじさまが、突然、鋭い声でそう怒鳴りました。その名前を聞いて、わたしははっと我に返りました。目の前に現れたその人が、夢子おばさまではなく、まして女の人でさえない、若い男の人なのだと、ようやくもって気付いたのです。
「着替えとけって言うたやろ!」
おじさまが声を荒らげて怒る姿を、わたしはこの時、初めて見ました。いつだって物腰柔らかく、頼りなげとさえ思われる印象のあったおじさまから、こんな大声が出るだなんて、想像だにしないことでした。
「そんなん、ぼく、聞いてへんし」
吐き捨てるように言い残して、夢子おばさまの浴衣を着たその人は、音を立てて障子を閉めて、廊下に去ってしまいました。遠ざかる足音が、なんだか苛立っているように、激しく響き渡りました。
部屋には再び、わたしとおじさまの二人きりとなりました。
「あの、あほ」
静まり返った室内に、おじさまの呟く声が小さく聞こえました。
わたしは、今しがた目にしたすべてが、まるきり夢の中のことのように思われて、けれど振り向いてほとけさまのお顔を見ると、やはりこれこそが現実なのだと、妙に実感されたのでした。それは、わたしがあるひとつの問題を東京に捨て置いたまま、こんなところまでひとりで逃げてきてしまった、そのことへの罰が、近いうちこの身に下されるのではなかろうかと、そんな冷たい予感さえをも孕んでいそうな感覚でした。
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