第2話 小説はなぜ「ノベル」なのか?

〇月▽日


 兎に角、私の半生は「幻聴との戦い」で、それを何とかするのが最優先課題である。この「個人的な体験」を、どう理解し、普遍化?するべきか?客観化して自己と他者の間に正確に位置付けて、どう応接すべきかを、正しい道筋を探求せねばならない。

 小説の類はいろいろ読みかじってはいて、筒井康隆や星新一のSFなどにはずいぶん傾倒したものだ。日本の近代文学、純文学、私小説等々も好きで読み漁った時期がある。小説家というものは他の職業よりも身近な存在で、ずっと意識下では小説家志望だったかもしれぬ。が、創作を実際にしてみるのは初体験で、手探りというより暗中模索である。

 辞書を引いて、小説をなぜ「ノベル novel 」というのか調べてみた。これはラテン語の「新しい話。new story 」を意味する単語が由来らしい。古典小説だとclassic novel になるが、これはだから矛盾している表現だろうか。

 もともと「写実的な長編小説」一般を指す語らしい。紫式部の「源氏物語」が最古のロマン小説というとか仄聞していたが、形式も内容も確かにユニークな恋愛小説だ。海外の実験的な小説とかも知識として多少通じてもいて、歴史上の№1と目されているのがセルバンテスの「ドンキ・ホーテ」であるとかも新聞の囲み記事で読んだことがある。

 どうせ書くからには古今未曾有の?型破りの小説というものを目指してみたいものだ。

 

〇月▽日


 小説は少しづつ書いて、火野先生に見てもらって、ディスカッションのセッションをしたりして、治療に役立てるというプロセスを予定している。

 ブルトンという作家の「シュールレアリズム宣言」というのを読んだことがあるが、これは「自動書記法」というのを提唱していて、つまりフロイトの自由連想法を文学に応用した理論らしかったが、これだと全く思い浮かぶことをそのままに自由に表出するという方法論で、楽と言えば楽だが、小説というべきものにまとまるかどうか自信がない。美的節度というか、ある程度の枠を設けることで秩序だってまとまった形式の情報が表現されるのでは?うまく言えないがそういう気もする。

 色川武大という人の「狂人日記」という本を読んで、その中の「狂気」の主観的な描写があまりにも異質で、凄惨な美しさ?というか悪夢とか抽象絵画みたいな迫力があって、目が眩むような思いをしたが、どうせならそういう「美的昇華」?みたいな表現で自分の幻聴や病を描写出来たら、と思う。

 

 そういう心がけで冒頭のところを書き下ろしてみる。全くの「筆おろし」で、処女作ならぬ?童貞作の導入である。

 

<続く> 

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