本文

◯まえがき


 ♪ニャーン ニャーン ニャニャニャ ニャーンニャン

            ニャニャニャ ニャーンニャン ニャニャニャニャーン


       西暦二二一一年(後の通称ニャンニャンワンワン年)

      二人の天才科学者ニャンコフスキーНянковскийワンコフスキーВанковский

     それぞれ独自に開発したフェリス粒子Felis particleカニス粒子Canis particleを世に問う。

    どちらの粒子もそれが満ちた環境内の人類に対し、身体能力の強化、

   代謝エネルギーの低減、治癒能力の向上などの多くの恩恵をもたらした。

  人類はこの新たな力を魔法と呼んで活用した。そして太陽光に反応し自然に

 増殖するこれら粒子のエネルギー転用も実用化を控え人類はさらなる繁栄を謳歌

するはずだった。



                           ニャニャニャニャーン⤴



       当初二つの粒子は異なる国、異なる地域で運用さ

      れていたが自然に地球全体に拡散し混ざり合っていく。

     二種の粒子が存在する環境は食肉目ネコ目へ劇的な影響を及ぼし、

    人類兵器が完全に無力化される程の力と頑丈さを与えてしまう。

   そして旧人類文明は言葉も社会性も持たない凶暴な獣に滅ぼされる。


  そののち、大きな力を持った一部のネコ科動物とイヌ科動物は驚異的な

 速度で進化を遂げる。社会性を獲得し、二足歩行となり、言語を得ることで

獣人の獣人による獣人のための社会を築く。それが新たな世界、新世界となった。


               そして……


  これから語るのはこの新世界に起きたとても稀な、とても特異な出来事

 二十一世紀初頭に生きる男子がこの新世界に紛れ込んだことから始まる物語


                        ニャン ニャニャニャニャン!











◯序章


 その部屋には獣人たちが十数人、広間に毛氈もうせんを敷き、間隔をあけて車座をなしていた。そして車座の中心と天井の間には真球が浮かんでいた。獣人たちは真球に両手のひらを向けてまっすぐ手を伸ばし、一心に何かを祈っているようだった。真球はシャボン玉のように透明で虹色が這いまわり、そして獣人たちから何かを吸い上げて…… いいえ、獣人たちが何かオーラのようなものを与えていた。

 やがて真球の中心に黒い靄が現れ、それが胚となって何かが形作られ始める。同時に外殻は次第に透明度を失い金属のような光沢を持ち始め、周りの獣人たちの姿を淡く映していく。最後にはほとんど光を通さなくなり内部で何が起こっているかわからなくなった。

 しばらくその状態を保っていた真球は一瞬だけひび割れて中から強い光が漏れた。そして緩やかに下降を始めると獣人たちはその動きに合わせて両腕を下げていく。さらに床に触れた部分がさらさらとした光の粒となって消えていき、ちょうど半球となったあたりで動きを止めると下のほうから次第に消えていった。あとには中心に成した存在だけが残った。



「これ人間だよな」


 獣人の中でひときわ体格のいい虎縞がつぶやくと左隣にいた三毛の獣人が答える。


「ええ、多分そう。それにとても赤子には見えないわ。予想の範囲とはいえこれは一大事ね。誰かひとっ走り先生呼んできて。大至急!」

「へい」


 その声に答えたのは淡黄褐色に黒い斑点の獣人で、勢いよく窓から飛び出すと、おっと、ここは二階でしたか、そのまま瓦屋根の上を音もなく駆け出した。


「ふう、それにしても疲れるもんだな。どれ」


 そう言うと体格のいい虎縞は毛氈に裸で横たわる人間に近づいてそっと肉球で触れた。


「あったけえな。寝息も立ててる」

「赤子なら産声を上げるところですが、これでは要領を得ませんね。先生が来るまでは手荒に扱わず様子を見ましょう。いいわね」


 最後の低い一言は思い思いに這い寄っていた獣人たちの手を引っ込めさせた。でも車座は肩を寄せ合う程度まで小さくなった。



 しばらくすると先ほど飛び出していった淡黄に黒斑点が同じ窓から飛び込んできた。その様に眉を顰めた三毛は後に続く黄褐色の獣人を迎えるために表情柔らかく立ち上がる。


「先生、こんな遅くにご足労いただき申し訳ありません」

「構わないわよ。これを見ればあなたたちの戸惑いも理解できるし」


 三毛は先生と呼んだ黄褐色を先ほどまで自分がいた上座を勧めると、反対側の獣人たちが詰めて作った場所、虎縞の右側に落ち着いた。


 黄褐色の先生は先ほど虎縞がしたのと同じように裸の人間に触れる。少しの間、そのままの体勢でゴロゴロと唸っていたかと思うとゆっくりと手を引っ込め、改まってその場の全員に伝えた。


「問題なし。少し待って目覚めなければ起こしましょう。あくまで優しくね」

「わかりました」


 三毛の答えに合わせて何人かがうなずいた。


 しかし獣人たちの関心は収まらず、触っていい? 優しくね、といった簡単なやり取りののち、思い思いに裸の人間に触れて感じて喜んでいた。中にはその人間の足の親指をつまんで持ち上げて、付いてる付いてるとはしゃいだりしていた。











◯春の章 冒頭より召喚されたその日の中ほどまで


 舞台はいったん現代日本へ。地方都市の商店街に住む高校生の登場です。


……


 彼の名前は猫西こにし夏梅なつめ、苗字のねこの『ね』は発音しない。大学受験を終えた彼は入学までの短い時間をのんびり過ごしていた。でも実家の甘味処の手伝いなどいろいろ稼いでおくことだろう。

 今日は久々の早朝ランニング。家を出れば朝の澄んだ空気と、そして一緒に走る女性が家の前で足踏みしながら迎えてくれる。彼女はすでに白い息を吐いていた。


「おはよう」

「なっくん、おはよう」


 軽く手を振って笑顔を返した彼女は、犬丸いぬまる咲理愛エミリア。エミリアはロシア人の父と日本人の母をもつ金髪碧眼のスレンダー美人で、ロシア語では“Эмилия”と綴る。夏梅曰く、学校一の美人だそうだがそれは贔屓目。確かに美人だが一番というほどではない。夏梅より八ヶ月年下だが同じ学年で、今の時期なら歳も同じ、春からも同じ大学へ通う。エミリアが大学でも体操部に入ることに夏梅は大賛成したものの、帰りは別々になることが多くなってしまいそうだと悩んでいる。

 夏梅とはお互い実家が同じ商店街の幼馴染で、夏梅が甘味処の息子ならエミリアは肉屋の一人娘。なにより二人は付き合ってすでに一年と二ヶ月という恋人同士。平々凡々な夏梅のどこがいいのやら。背も夏梅のほうが低いというのに。でもまだ手を繋ぐことすら戸惑う関係だ。


 そしてエミリアは間髪置かず夏梅の後ろにいる女性にも挨拶。


「あっ、千百合ちゆり先輩もおはようございます」


 今度は足を止めてしっかり頭を下げた。


「『あっ』に『先輩』だって、やっぱり私はお邪魔かしら」


 そうこぼしたのは夏梅の後ろの女性、猫西こにし千百合ちゆり。千百合は夏梅の姉で一回り年上の社会人。彼女は二人と同じ高校の出身でエミリアにとっては体操部の大先輩。そしてエミリアが霞むほどの美貌とナイスバディの持ち主。エミリアが千百合にあこがれるのも無理はない。


「ねーちゃん、いけずしないで。ただの挨拶でしょ」

「あぁーあっ、やっぱりなつくんはエミの肩を持つんだ。昔はお姉ちゃんお姉ちゃんって可愛かったのに……」


 これはまさに千百合の本音。つまり千百合は弟に対して執着を持っている、いわゆるブラコンだ。一方、夏梅は夏梅でシスコンなのだが彼女ができて少しだけ姉離れをしている。千百合も弟離れを意識して夏梅とエミリアの仲を応援しているが…… まあ、効果は表れていない。


「エミちゃん、ねーちゃんは置いてこう。最近鈍ってるし追いつけないよ」


 口で敵わない夏梅は実力行使に出ようとするが、その気持ちもわからないでもない。何せ千百合が「可愛い」と言い出すと、「夏梅のおむつを替えた時もいろいろ可愛かったのよ」と何が可愛かったのか詳しく聞きたくなるような話になりかねないのだから。

 でもその思惑はエミリアに止められる。


「だーめ、まずは準備運動! 置いてくにしても、そ・れ・か・ら」


 あらら、どちらかの肩を持つわけでもないようです。


 それというのもエミリアは筋肉の育成に人一倍の情熱を持っているからで、夏梅は体操部だから準備運動にうるさいと思っているが実際は性癖というやつだ。


「えー。エミが冷たいぃ」


 千百合の軽口を最後に三人は柔軟体操を始めた。アスファルトに座り両足を伸ばして前屈していたエミリアは、少し足を開くと何の抵抗もなく胸を地面にぺたんとつける。同じように長座していた夏梅はランパンから延びる素足にくぎ付け。するとエミリアは器用に視線を送る。


「なっくん、背中押そうか」

「大丈夫、ちゃんとやるから」


 冗談じゃない。そんなことになったら二人がかりで背中に乗られるのが目に見えてる。今日一日が文字通り潰れてしまう、と慌てて前屈を始める夏梅。そこへ今度は千百合が声を掛ける。


「じゃあ私が押そうか?」

「ねーちゃんこそ押してもらったほうがいいんじゃない」

「二人とも!」


 最後はエミリアに二人して怒られてしまった。



「そういえばポチは?」

「走る格好しているときはシカト」


 エミリアに答えた千百合は肩をすくめた。猫西家では犬を飼っていてその名前がポチ。もこもこの大型犬なのだが最近老け込み始め、散歩なら先導するがランニングにはついてこなくなっていた。

 ちなみにエミリアの犬丸家では去年子猫を飼い始めた。タマって名前を付けて髭面でガタイのいいロシア親父までが猫可愛がりしているらしい。


……


 走り始めた三人は公園に差し掛かると外周をぐるっと回って方向転換、そこから川沿いへ向い二車線道路沿いを進む。エミリアと千百合は話をしながら走っていたためペースは上がらず、夏梅はその内容に耳を傾けつつ二人の前に出た。

 すると、前方の横断歩道の真ん中に何かうずくまっている。いち早くそれに気づいた夏梅はペースを速め、それが子猫だと分かったときには全力で走りだしていた。この時間帯、車は少ないものの飛ばしていることが多いため早く助け上げないといけなかった。

 横断歩道にしゃがみこんだ夏梅が子猫を抱き上げると、その子がミィと鳴いた。だから夏梅は子猫の頭を軽く撫でたが、そのわずかな遅れがいけなかった。


 ―― キー!


 横道から飛び出した乗用車は急ブレーキをかけた。慌てて音のほうを見た夏梅はその瞬間、金縛りにあったように動けなくなる。夏梅にできたのは三毛の子猫をかばうように抱きしめただけ。


「なっくん!」


 エミリアはそう叫びながら夏梅と子猫に覆いかぶさった。しかし、あまつさえ遅すぎた対応に、あろうことかその車はスピンして横断歩道上の二人と一匹を薙ぎ払っていった……




―――― そして舞台は新世界へ




 夏梅が目覚めたのは毛氈もうせんの上、彼は裸で転がされていた。そして気持ち、体を丸め直したら声が聞こえてきた。


「やっと起きたみたいね」


 最初に三毛の獣人が反応した。その声は優しい響きで、夏梅にも届いた。しかし彼はその見知らぬ声で起きだすのをためらってしまう。


「こいつ話せるかな?」

「これだけ大きければ大丈夫でしょう。声かけてみましょうか」

「それは俺の役目だ」


 虎縞の獣人の声は夏梅にはひときわ太く低く響き、だからますます警戒を強めた。


「よし、起きろ。まずは自己紹介だ」


 戸惑いながらも夏梅は自分に向けられた声へ意識を向けると、彼には毛皮を着た足が胡坐をかいているように見えた。体を起こしながら視線を上げていけばそれは巨大なトラのぬいぐるみで、厳ついサングラスと白いタンクトップを着せられて胡坐をかいていた。ただし、どう見ても四足歩行するようなバランスの体ではない。


 ぬいぐるみの正面に正座して心もとない股間に両手を置いた夏梅は、改めて盗み見るように観察した。綿を詰めたにしては重量感があって、被毛の質感も、硬そうな髭も、あまりにリアルだ。それに……


「きんにく?」


 パンパンに張ったタンクトップの胸、唯一夏梅の知識で理解できたその文字を彼は声に出して読んでしまった。


「おうよ、筋肉だ。読めるんだな」


 ぬいぐるみがしゃべった。そのことに夏梅はおおげさには驚かなかった。むしろやっぱりそうかと諦めてもいた。そして「筋肉」の左には三色毛皮の巨大なミケネコが、右は黄褐色の被毛をまとう雌ライオンが同じように鎮座していた。


「いいじゃねえか。なぁ」


 巨大なトラが話を振るのにつられてミケネコへ視線を移す夏梅。するとミケネコは彼に微笑みかけ、それからトラに向き直った。


「それもいいけど、早く自己紹介なさい。あとがつかえてるんだから」


 ミケネコの言葉にトラは少したじろぐと改めて夏梅に向き直る。


「俺の名前はタイガ、ここ筋肉食堂の店主だ。座右の銘は鉄腕強打。みんなからは大将と呼ばれてる。だからお前もそうしろ」


 筋肉を見せつけるようにポーズをつけながら言い含めたトラだったが、夏梅の薄い反応にもう一言付け加える。


「わかったか? 意味が分からないんじゃねえだろうな」


 突然ドスのきいた声に夏梅の下半身からヒュンと何かが背筋を走り上った。このトラ、沸点低そうだ。


「わ、わかります」

「声小せえなあ、おい。ちゃんと肉食ってんのかぁ」


 夏梅を覗き込むようにしてトラが言う。するとミケネコが助けを出す。


「こら、脅すんじゃない」

「おっ、おう」


 できればミケネコに相手して欲しい。それが夏梅の思いだったが、引き続きトラのターン。


「それからお前は俺たちの子だ。ぶらぶらさせてたから息子だな。独り立ちできるまでは養ってやる。安心しろ」

「息子ってどういう……」


 先ほどから夏梅には理解できないことだらけだったが、さすがに息子と言われては聞き返さずにはいられなかった。


「それはお前が俺たちのところに生まれてきたからだ。わかるだろ」


 わかりません


 そうはっきり言うだけの根性はなく、縮み上がってしまっていた夏梅はひきつった顔でかくかくと首を傾げた。


「大将は黙ってて。先生お願いします」


 一瞬鼻息が荒くなったトラの大将の機先を制したミケネコがお願いした先は右側の雌ライオン。


「君は人間だね」


 その質問は夏梅にとって意外だった。でも自信を持って答えられる。


「はい」


 ちゃんと答えられるじゃねえか、そうこぼしたトラの大将をミケネコが小突いていた。


「おそらく旧人類と同じ家族観なんでしょう……」


 そう前置きして雌ライオン先生は話し始めた。一言でいうと彼ら獣人は魔力を使って子を授かる。あの真球はその過程で生じたものだった。通常なら獣人の赤子を授かるが、ごくまれに成長した姿で、さらにごくごく、ごくまれに夏梅のような人間を授かることもある。理屈ではなくそういうものだと雌ライオン先生は解説した。


「だから大将含め、ここにいる全員にとって君は息子ということなんだけど…… わかりますか」


 …… プロコンではここまで











◯春の章 目抜き通りで甘味屋の女将に会う


 筋肉食堂に夏梅が生まれてはや一週間、彼は今日も通りに出て客引きをしていた。ちょうどお昼の書き入れ時が一段落したころ、向かいの甘味処から勢いよくキツネの女将が現れたと思ったらまっすぐ彼の前に来た。


「あんたが食堂の子かい?」

「はい、そうです」


 女将のことはモミジから遠目に紹介されていた夏梅だが、直接話すのは初めてだ。そして何の遠慮もなしに値踏みする視線で上から下まで嘗め回され、さらに右から左から全身を検分されれば居心地も悪くなる。


「なにか御用でしょうか」

「尻尾はないんだねぇ」

「はい、人間ですから」


 この問いかけにはもう慣れた夏梅だが、触ってみたがる人も多くてそちらは慣れそうもなかった。


 そんな二人をめがけて勇ましい足音が勢い良く近づいてきた。


「なんだぁ、うちの息子に何か文句でもあんのか」


 大将はすでに喧嘩腰だ。顎を出して女将を見下ろしている。


「なぁに、噂になってるからねえ。ちょっと話を聞かせてもらってただけさ」


 女将は「ありがとよ」と夏梅に声をかけてから大将に向き直った。臨戦態勢で。


「アタイが文句があるのはアンタの店の匂いだよ。臭いったらありゃしない」

「はぁ? 毎日お世話になってるこのかぐわしさ。何が気に入らねぇんだ」

「うちの店に入れんなっつってんだ! 甘味に匂いが移るんだ!」


 たしかに甘味に肉の匂いが移ったらそれは嫌だ。


「店ん中から扇ぎゃいいだろうが!」


 毎度のことではあるがこの二人の剣幕は尋常じゃない。初めての経験になる夏梅にとってはなおさらだ。大将の鼻筋に寄る皺はまさに猛獣そのもの。上背では負けている女将も、声の大きさでは勝っているかもしれない。


 すぐに両方の店から人が飛び出してきて、何事かと集まってくる観光客の整理を始めた。その間に夏梅はモミジに引っ張られて人だかりの手前に。すると着物姿の二人連れのヒョウの獣人が夏梅に声をかけた。


「あなたが噂の人間?」

「はい、そこの『筋肉食堂』の息子です」

「確かに雄の匂いはしてるね」


 胸の文言と店を指し示しながら自己紹介する夏梅。そして先ほどの女将と同じように観察される。


「それはそうと、あれ、大丈夫なの?」


 今度は通りの真ん中でいがみ合う二人を指さしながら尋ねられた。でもそこからは胸を張って出てきたモミジに代わった。


「ご心配ありません。あれもこの街のイベントの一つなんです」

「へー、って、そっちの坊やも驚いた顔してるけど」

「この子も実際に見るのは生まれて初めてなんですよ」


 その答えになるほどとうなずく二人連れ。一方、イベントのことは聞いていた夏梅だったが、思っていた以上に荒っぽくちょっと引いていた。


「あれは古の名言、『かじと喧嘩は街の華』という言葉に沿ったイベントです」


 それを言うなら「江戸の華」やん! と心の中で突っ込む夏梅。でも意味の分からないこともあった。


かじ火事ってどういうことですか?」


 夏梅に向かってひとつうなずいたモミジは客に向き直って説明する。


「夏の時とかいて夏時かじなんです。夏にはむこうのかわ武庫川で水遊びもできるんですよ」


 うわぁ、突っ込みたい。そう思った夏梅だが、すかさず観光案内をぶっこむモミジの邪魔をしない程度の分別は持っていた。


「涼しそうでいいね」

「夏にもまた来ようか」


 楽しそうに話す二人連れはモミジの思惑通り興味津々。


 その間にも通りの二人の周りには人垣ができていた。幸いそんなにぎゅうぎゅうではないけど二重にはなっていた。

 当の二人はますますヒートアップ。腕を振り、体をひねり、お互い相手を指さし合う。仕舞には牙を剥き、鼻の頭をこすり合う始末。握る拳がますます搾り上げられたところで二人の後ろにそれぞれ白い板を持った獣人が立った。


「さあ、始まりますよ。ごゆっくり」


 そう断ったモミジに引っ張られた夏梅は人垣の外へ移動した。そして耳元に囁かれる。


「この先、私では対処できない大混乱になる可能性があるの。その時はうちのイヌ科たちを手伝うこと。いいわね」

「あっ、はい」


 返事はしたが全く理解していない夏梅。それでもモミジの指さす先のタッパーを持った二人を確認した。ちょうど大将と女将の顔が見える好位置だ。



 その間に筋肉食堂の大将はサングラスと引き換えに白い板を受け取り、甘味屋の女将は耳飾りを外し、袖をたすき掛けしてから受け取った。そしてそれぞれに白い板を片手で掲げると、それは扇のように開いた。


「ハリセンやん!」


 夏梅が板だと思ったそれは、大阪のソウルSoulウエポンWeapon(注:極めて個人的な見解です)、ハリセンだった。それを得物に二人は怒鳴り合いながらはたきあい始めた。


「そうなんです。あれはハリセンというもので、古の喧嘩の作法で使う怪我しなくていい道具なんです」


 ちがーう、絶対に違う。ちゃんとボケに対してはたくもんだ!


 でも周りを囲む獣人たちはそれで納得してイベントとして楽しんでいた。ただし大将と女将だけは間違いなく本気だった。

 そのうち口数が減って叩きあい一辺倒に。じきにハリセンもボロボロ。


「今日はこの辺にしといたろ」


 ちょっと息の上がった女将を見下ろした大将の軽口。


「それはこっちのセリフだよ! フン!」


 そう言ってくるっと背を向けた女将は懐から何かを取り出した。それを一度強く握ったかと思うと振り向きざまに大将の頭の上めがけて投げ放つ。それは七つくらいの匂い袋。


「にゃっふーん」


 変な声を上げた大将はもちろん、観光客たちも含め、その場にいたネコ科獣人全員が我先にと飛びついた! もちろんモミジまでも。取り合いになったらただじゃすまない勢いではあったが、実際は誰もそうしなかった。そして地面に落ちた匂い袋に背中とか頭をこすりつけ始め、イモ洗いならぬネコ洗い状態になった。


 その混乱の間に夏梅は仲間のイヌ科獣人のところへ向かう。


「マタタビ、ですか」

「そうだ、女将の最終兵器。イヌハッカCatnipもブレンドしてあるらしい。くれぐれもあのネコ洗いに巻き込まれないようにするんだぞ。ひとたまりもないからな」

「肝に銘じておきます」


 そのあとタッパーを渡された夏梅は勢いの衰えたネコ洗いの合間を縫うようにして匂い袋を回収、しっかり封印した。


 じきに混乱も収まると遠巻きにしていた着物レンタル店の人たちがやってきて、混乱に突っ込んだ獣人たちの着物の汚れを落とし、着付けをやり直す。また筋肉食堂と甘味処は一服するお客さんで溢れかえった。


 ただ、匂い袋を投げ放ったあとの女将が夏梅のことを注視していた。それは興味本位の視線ではなく、何か思惑があるようだった。











◯冬の章 小部屋でマッサージ中のヒロインに酔いが回り始めてから


 エミリアは力を込めるのに合わせ小さく息を漏らしていたが、そこへ次第にけだるさが混じってくる。


「ねぇーぇ、なつくーん。ちょっとぉ、熱くないぃ?」


 とうとうふやけた口調で訴え始めたと思えば、すっと立ち上がるとシュルシュルと衣擦れの音を響かせる。そうして手にした大きな布を俯せになった夏梅の胸から上へかぶせて目隠しにした。

 突然視界を遮られた夏梅は被された布の柄を透かし見て、しかしそれが先ほどまでエミリアが着ていた浴衣の柄とまでは気づかなかった。

 それからするっと残りの一枚も手の中にまとめたエミリアは、少し考えて部屋の隅へと放り投げた。次に夏梅の背中を覆っていた浴衣を上へはだけると腰の上の一番くびれたあたりに両手をついて体を支え、夏梅の胴の左右に膝をおろして腰骨の上にペタンと座り込んでしまった。そしてほのかな潤いを際立たせる風の感触に両足を閉じようとしたが夏梅の胴を挟み込むだけだった。


「まる見え……」

「それはエミちゃんが浴衣を開けたからでしょ」

「いいの!」


 両手から伝わる夏梅の感触が名残惜しいエミリアだったが、背中から腰骨へと夏梅の肌をなぞったあと自分の太ももからわき腹を掠め、お臍の上で手のひらを交差させたら自らを抱きしめるようにして持ち上げた。


 慌てたのは夏梅だ。突然背中を覆っていた布がなくなり、手のひらとは違うもっと柔らかくて広くて温かな感触が腰に乗っかってきた。問題はそのせいで腰を通じて下半身を圧迫され始めたことだ。


「エミちゃん! 何やってるの!」

「なんでもないよ。でーも、ここからは本気モードっ」


 その口調はますます緩く甘ったるく、はっきり聞こえない程度に小さく笑ってもいた。この時、エミリアはかなり大胆になっていた。それは夏梅の纏ってきた酒の匂いのせいだ。もしかして本気モードって、一文字間違っている?

 しかし夏梅の背骨に気づくと本気モードとやらはどこへやら、人差指一本でスーッとなぞり下ろした。


「ひっ」


 背中が引きつって声が出る夏梅。


「変な声出さないでぇ」

「それ、マッサージじゃないでしょ。エミちゃん、酔ってないよね」

「大丈夫、お酒には近づいてもいないからぁ」


 おしい! そこでもう一押ししないといけないのよ、夏梅くん。


「じゃぁあ、ここからはクイズね。背中に書いたぁ、字を当てたらなっくんの勝ち」


 不穏な空気を感じつつも、エミリアの甘い声に納得して構えるのが夏梅だ。背中に意識を集中して一画目を待つ。ところが……

 エミリアは夏梅の腰の上でゆらゆらし始める。つまり全体重で夏梅の腰骨をうどんをこねるように押し込み始めた。その位置への圧迫は夏梅の腰から下を前後に揺らすことになる。

 下半身に気を取られていた夏梅は、危うく背中の感触を逃すところだった。最初は背中の幅をたっぷり使った横一文字、次は……


「はあっ」


 唐突になまめかしい声。


「ど、どうしたの」

「集中してないとぉ、なんて書いてるのかぁ、わかんないよ」


 攪乱ですかぁ! それに腰にかかる重みが緩やかに大きくなってる。背中のストロークに集中したいけど、下半身のストロークも気になってしかたがない。


 えっと一文字目は『犬』? なら次は『丸』かな。でもよくわからないまま多分三文字目。左半分は『女』、右には『子』。


「わかった! 犬が好きぃぃ、いったぁぁぁ」


 その瞬間、夏梅はお尻の肉を思いっきり捻られていた。おかげで少し冷静さを取り戻した。


「もう一回!」


 エミリアが不満そうな声で宣言。


 ちょっと考えたらなんて書いたかなんて簡単にわかるじゃないか。エミちゃんのことだから同じ言葉を書いてくれるはず。そう思い至った夏梅は背中の感触を待っていたのだが、なかなか動きがない。そういえば腰の重みも静かになっていた。

 それはエミリアの揺れが緩やかになっていたからであり、もうその傾きを戻す意識がなくなったその時、夏梅の背中に顔から、あるいは胸から倒れこんだ。

 急な衝撃で呼吸を乱された夏梅だったが、しかし彼の背中はその素肌の感触をしぃぃぃっかり、捉えていた。


 次の瞬間、部屋の襖が滑り、柱に叩きつけられて高い音を上げる。すかさずキツネの女将ほか、甘味処の出歯亀一同が部屋になだれ込んだ。


「エミ、大丈夫か。って、なんだこれ、酒くっさ」


 女将の慌てた声。それはすぐに怒声に代わる。


「このバカネコ! エミに酒飲ませたな。何する気だった!」


 すぐにエミリアは女将たちによって抱え上げられ、彼女の浴衣ともう一枚と共に部屋の外へ連れ出された。

 背中への重みが無くなった夏梅は慌てて体を起こした。


「えっ、そんな……」

「なんでもいい! エミは部屋で寝かせる」


 そう言い残すと女将をしんがりに一行は部屋から消え去った。


 女将たちの勢いに気圧されて出遅れていたトラの大将が、あっけにとられて座り込む夏梅の肩をポフッと叩く。


「おめえ、ちゃんと酒の匂いを抜いてからにしないと、な」


 そういえば全員酔いつぶして大慌てで来たから、自分の匂いに気づいてなかったことに今更思い至る夏梅。


「あれっていいところだったんだろ? エミちゃん、普段は見ない格好だったしな」

「見てたんですか?」

「そりゃぁ、親としては心配だからな」


 悪びれる様子もない大将とその後ろで頷く筋肉食堂一同。えっ、一同?


「酔いつぶれてたんじゃ……」

「細けえことは気にすんな。さっ、一人寂しくなんて嫌だろ。飲み直すぞ」


 そして大将に首根っこをつかまれた夏梅は、猫の子のように吊るされて自分たちの大部屋へと戻った。



 翌朝、目を覚ました夏梅は大部屋で雑魚寝していた。もそもそと座り込んで思い出すように背中の腰骨あたりを触ると、なにかが薄く伸ばされてそのまま乾いてしまったみたいで、ちょっと擦るとパラパラと薄皮が落ちていった。

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②猫西くんの新世界 ~でも「づぼらや」はありません~ ゴロゴロ卿 @Lord_Purring

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