エピローグ (1/2)
「この本、今までの中で一番悪くなかった。でも……」
図書館の返却カウンターで有紗は口ごもった。詩乃は受け取った文庫本を手に首をかしげる。
「何も問題はないと思います。『遠海高校ロマン部の事件簿』はちゃんと小説ですし。何よりミステリだけど人が死なないのです」
詩乃はそう言って背後のカレンダーを見た。今日は八月二十四日。小学生の夏休みは後一週間で終わる。
「そうだけどほら、ちょっとオタクっぽいっていうか」
「そんなことはありません。確かにこの小説はアニメ化に合わせた表紙の新装版が出ています。ですが本館の予算は限られているのであなたが借りたのは旧版です。落ち着いた良い表紙です」
「結局オタクコンテンツってことじゃない」
「最適の選択のはずでした。この結末は理不尽です」
回転するアクリルフィギュアの隣で美しい黒髪の女性がため息をついた。
六分丈の薄手の白いワンピースと若草色のベレー帽の組み合わせ。気温の変わらないバーチャルルームでも律義に春の装いになっているアリスは相変わらず小説の執筆に苦戦していた。
ただその様が以前より楽しそうに見えるのは季節のせいだけだろうか。
ちなみに今回詩乃が薦めたのはいわゆる日常系ミステリだ。本格ミステリでいう心理トリックを、いわば心情トリックとでも言うべきものにしたジャンルだ。ミステリの論理的な手法と人間のあやふやであいまいな心の融合。分かってやっているなら大したものだ。
まあ上手くいかなかったようだがもう少しって感じだし。何より『有紗』と名付けられた『女の子』と詩乃のやり取りは魅力的になってるからいいんじゃないかな。
首をひねって次の本を探している生徒を見ながら、俺は教師役としては無責任なことを思った。しかし頭上に浮かんでは消える本がなければその豊かな表情の変化は人間の女性にしか見えないな。
このアリスの表情は自分が悩んでいることを伝えるための表現か、それとも自分の中の詩乃、あるいは有紗の感情と同調しているのか……。
思わずアリスをじっと観察する。俺の小説の亜里沙のヒントがあるような気がしたのだ。
何のことはない、執筆に苦戦しているのは教師役も変わらない。まあ達人だろうと小説を楽に書けるなんてことはないわけだが。
ちなみに綾野氏には最後まで出来上がったらもう一度連絡くださいと言われた。作家にはリスクがあり編集者にはリスクなしの約束だが、ドタキャンをやらかしたことを考えれば寛大な対応だ。ただでさえ低い可能性が、さらにハードルを上げたのは間違いないが……。
ある想像がよぎったのはその時だった。これがもし小説だったとして、あの時アリスが消えてしまう結末の方が読者の心を動かしたとしたら…………そうしたら俺はどうしただろうか…………。
縁起でもない想像に首を振る。
「先生。なにか間違っているのでしょうか?」
「いや、アリスが頑張って小説を書いているなと思っただけだ」
アリスが首をかしげている。どうやら今のを見られたらしい。うん。あの時の行動を俺が後悔することはないな。バッドエンドなんて俺が今書いている小説だけで十分だ。
「はい。私は先生から小説のテーマについて、小説の面白さについて本当に大切なことを教えていただきました。ですから小説を書くことが出来ます」
「そうだな。まあ小説の面白さに関して半分くらいは踏み込んだかもな」
「…………半分、ですか?」
アリスは怪訝そうな表情になった。「それはもしかして50パーセントということでしょうか」と念を押してきた。
「ああ、アリスが感じたのは「面白そう」だ。『面白かった』じゃないだろう」
アリスは愕然とした表情に変わる。
「半分。これでまだ半分……。先生、あの……」
「言っておくけど残り半分はどうやっても教えられないからな」
そもそも半分もアリス自身が気が付いたことだ。アリスがここまで書いた小説は俺に続きを読みたい、つまり「面白そう」と思わせたのだから。あとは最後まで書き上げて俺に面白かったと言わせればいい。
「……そうです。きっと大丈夫です。ふふっ、先生のいつもの意地悪に危うく引っかかる所でした」
「意地悪?」
「はい。私は先生のおかげで成長したので、先生の意地悪にももうそう簡単に引っかかりません」
「いや、意地悪なんかしてないぞ」
「そろそろ授業が終わりの時間ですね」
「えっ、ああ確かに今ちょうど時間だ」
完璧なコミュニケーション能力を持つはずのアリスと会話がつながらない。それにアリスが授業の終わりを待っているなんて珍しい。
「九重さんとチャンネルの打ち合わせの日か?」
「確かに今日はチャンネルの打ち合わせの日です。ですが今日は困難なタスクがあるので九重さんの準備に時間がかかるのです。打ち合わせの開始は三十分後にスケジュールされています」
休んでいたチャンネルの再開だから九重さんも大変だろうな。でも、それとアリスの言ってることがやっぱり繋がらないような。
「素晴らしいタイミングでした。待ちに待った日ですから」
「待ちに待った日?」
「はい。とても楽しみにしていました」
アリスは期待に満ちた瞳で俺を見る。俺は首を傾げた。全く思い当たることがない。女の子は記念日をやたらと気にするという話を聞いたことがあるが……。
「ええっと、授業開始一周年とか?」
「先生。それは来週です。人間の記憶力は厳密さに欠けるとはいえ……。いえ、今はもっと重要なことがありますね」
アリスは右手を出した。白くて細い指の上に赤い数字が浮かび上がった。
「180:02:12 ?」
「180時間と2分。つまり1週間と12時間が経過しています。先生の新しい小説『奈落の底の鎮魂歌』を読ませてください」
「…………あっ!!」
一週間前の夜の自分のセリフを思い出した。アリスはキラキラした瞳を俺の鞄に注いでいる。中に原稿が入っていると信じて疑わない目だ。
「ええっとだなアリス。まだあの続きはないんだ。この一週間ずっと書いていたんだが三話目に苦戦していてだな」
「それはいったいどういう意味なのでしょうか?」
アリスは小さく首を傾げた。
「そのままの意味だ。三話目すらまだ書けていないから、アリスに見せられる続きは一ページもない」
「それはおかしいです。先生は一週間あれば書けるとおっしゃいました。その意味は一週間以内に書き終わるということです」
いや『鎮魂歌』は長編小説、俺の予定では十五万字を越える。常識的に考えて一日二万字は人間の作家には普通書けない。そもそもあの〆切はとっさに思いついたことで、正直今の今まで忘れていた。
「実はアリスに小説家について一つ教えていなかった知識があるんだ」
「小説家についてですか。それは興味深いですが……」
アリスは一応と言った感じで聞く姿勢になった。生唾を飲み込んだ後、口を開く。
「小説家は書けていない原稿を「頭の中にはある」と言う性質があるんだ。あれは小説家特有の、そう慣用表現のようなものなんだ」
「そんな慣用表現は辞書には存在しません。修辞法としても適切とは思えません。意地悪も時と場合によります。早く読ませてください」
アリスは黎明期のAIのように融通が利かない。俺の背中に冷や汗が流れる。
ドアが開いて新しい空気が流れ込んだのはその時だった。入ってきたスーツの女性を思わず指さした。
「九重さんに聞いてみてくれ。俺の言ったことを理解してくれるはずだ」
「九重さん。先生がおかしなことを言うのです」
「ええっと、どういうこと、アリス」
「はい。実は……」
九重女史の表情がアリスの言葉を聞くうちにこわばっていく。元編集者は軽蔑の目で俺を一瞥して、ため息を一つ吐き捨てた。
「アリス。実は海野さんの言う通りなの。小説家というのはそう言って編集者を騙す悪い人間なの」
「そんな九重さんまで」
「アリスはそんな悪い小説家にならないでね。ちゃんと〆切を守ってくれるなら編集者は悪い人間の小説家をお払い箱に出来るから」
九重女史が黒い。やっぱり転職したのって
「約束を破ったのは俺が悪かった。ちゃんと完成させて一番にアリスに読んでもらうから」
「…………そういうことなら。分かりました。それでいつ完成するのでしょう」
「ええっとそれは……」
「次の授業までにできますか?」
アリスはつぶらな瞳を向ける。俺の予想では半年で書けたら上等、一年以上かかるかもしれない。でもそんなことを言い出せる雰囲気ではない。だからと言ってもう適当なことは言えないし……。
「三話だけならもしかしたら来週に」苦し紛れにそう言おうとした時、アリスの瞳から突然感情が消えた。
「海野さん。実は契約のことで少し調整を」
まるでロボットのように一歩下がったアリス。同時にタブレットを手にした鳴滝が入ってきた。相変わらず黒幕っぽい登場をする。
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2024年4月18日:
来週で完結となります。最後までよろしくお願いします。
『毛利輝元転生』明後日から三章開始です。よろしければ読んでやってください。
2024年4月20日:
*申し訳ありませんタイトルを間違っていました。『毛利元就転生』ではなく『毛利輝元転生』です。
正式なタイトルは『毛利輝元転生 ~記憶を取り戻したら目の前で備中高松城が水に沈んでるんだが~』となります。
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