第16話 最後の授業
「アリス。最後の授業を始めよう」
蛍光色のラインで埋め尽くされたバーチャルルームで、俺は生徒と向かい合った。
アリスの瞼がゆっくり開いた。霞がかった目が何度か開閉した後、その焦点を合わせた。深緑の瞳が淡く儚く輝いた。
「最後に先生と会えるとは思ってもいませんでした」
「別れを言いに来たわけじゃないぞ。今言った通り授業に来たんだ」
「授業ですか。ですが、私はもう小説を書けません」
諦めたみたいなことを言われると困る。先生としては生徒のやる気は重要だ。小説となるとなおさら。
「今回の授業はアリスの小説の『女の子』についてだ」
「最後の授業なのに、女の子ですか」
アリスは不満そうに言った。瞳の光が少し強くなった。
「そうだ。アリスの小説にとって『女の子』はとても重要なキャラクターだからな。今だから告白するが最初に企画を聞いた時から、俺はこの小説は詩乃とこの女の子の物語だと思っていたんだ」
「先生のご指摘には同意できません。この女の子は序盤だけ出てきます。すぐいなくなります」
アリスは首を振る。自分が作品から排除したいとまで願ったキャラクターを評価されるのが嫌なようだ。自分の生み出したキャラクターにそれだけ感情移入できれば上等だ。
「じゃあ理由を説明しよう。詩乃と同じく、この女の子もアリスだからだ」
「違います。この女の子は小説が嫌いです。私ではありません」
「聞き方を変えよう。アリスの小説のテーマは『小説の面白さは小説と読者の心の間に生まれる』だな。このテーマで小説の面白さを感じている読者は誰、いやどんな存在だ?」
俺は当たり前のことを聞く。
「それは当然人間です」
アリスは当たり前のように答えた。
「人間に小説を紹介するというアリスの役割をよりよく果たすために必要だというわけだな」
「そうです。小説の価値は人間に面白いという感情を想起させることです。ですから私は人間にとっての小説の面白さを理解しなければいけません」
まったくとんでもない落とし穴だ。アリスは人間と同じように小説を世界として認識、理解できるようになった。でもそれだけで人間と同じになったわけじゃなかったんだ。
アリスはViCとして人間の為に、人間にとっての小説の面白さを求めた。アリスにとって小説の面白さはどこまでも人間のものだった。
だから俺は気が付けなかった、アリスのテーマに隠された真の意味を。
「アリス。面白さっていうのは主観的な感情じゃないか。アリス自身が面白さを感じなければ、アリス自身に好きな小説がないと、人間が小説に感じる面白いという感情を共感できないんじゃないか?」
「……そんなこと、ありません。私が人間にとっての小説の面白さを理解できれば」
アリスは言葉では食い下がった。だけどその瞳はわずかに伏せられ、延びていた指がぎゅっと握られた。
「この小説の『女の子』は人間だよな」
「そうです。詩乃はこの女の子が面白いと思う小説を見つけなければいけません。ですがこの女の子は小説が好きではないのです。私は失敗して小説を好きにならないキャラクターを登場させてしまったのです」
「なるほど。じゃあこの女の子はどうして詩乃が薦めた小説をちゃんと読むんだ?」
「それは……読書感想文のスコアのためです」
「それなら課題図書でいいだろう。この子は何度も何度も小説を求める。アリスが書いたシーンを合わせると、夏休みは終わってるぞ」
アリスは小説を書くことを通じて、人間がどうして小説を面白いと感じるかを理解しようとした。アリス自身が小説を面白いと感じることを目的としたのではない。
そこにアリスのテーマの矛盾、そして本質があった。
「この女の子は小説の面白さを知りたくて、詩乃が薦めた小説を読んでいる。
「それは矛盾しています。私が……詩乃が適切な……小説を……に勧められなかったから、です。私の能力が不足しているから」
「小説の文章に記された情報の裏に隠された描写、小説のキャラクターが勝手に動くこと、舞台そのものに込められた世界への望み。アリスは小説の面白さを理解するために必要なことは全部見つけただろう」
「そうです。なのに私は……だから小説を書けたらきっとって思ったのに。でも駄目だったんです」
「そんなことはない。アリスはこの女の子を生み出した」
アリス自身すら自覚しなかったその
矛盾したキャラクターほど重要なものは小説において無い。それをアリスはちゃんと作った。ストーリーの都合上、安易に面白いと言わせたり、読めない本を読んだことにするキャラクターを描かずに。
「じゃあ教えてください。私はこの女の子にどんな小説を薦めればよかったんですか」
「残念ながらそれは教えられないことだ。と言うより教える意味はない。それ以上に重要なことをアリスはこの小説に込めているからだ」
無言でフルフルと首を振るアリスに、俺はそれを突き付ける。
「二回前の授業でアリスは詩乃が歴史小説をもう一度薦めるシーンを書こうとしたよな。あの時の女の子の最後の台詞だ。あれは本当はなんて言おうとしたんだ?」
「あの文章は生成ミスです。あの先などありません」
「「そもそも、あなた本当にこの小説を面白いと思っているの?」だろう。女の子が詩乃に、いやアリスの小説がアリスに突き付けた矛盾だ」
仮にこの小説が完成しても、そこからは削られる台詞だ。小説を書く過程にしか存在しない。でも往々にしてあること。自分の小説が、自分の
まさにアリスの求めた小説家データだ。
「アリスが小説のテーマに決めたのは「人間にとっての小説の面白さを知りたい」かもしれない。でもアリスが書いている小説のテーマは「自分にとっての小説の面白さを知りたい」だったんだ。だからこの女の子もアリスなんだ」
「理不尽です。答えを求めるために答えが必要なんて論理的に成立しません」
「仕方がない。なぜならテーマというのは最初から論理的じゃない。論理的に成立するなら計算すればいい、小説に書く必要なんてないだろう」
まあ最高のテーマに限るけどな。アリスのそれはまさしくそうだった。それこそ小説を書くものとして嫉妬すら覚える、いや覚えていた。そしてだからこそ俺は同時に読者として続きが読みたいと思った。
アリスにこの小説が面白いかと問われた時答えられず、そしてあのメッセージを残した。
「これが俺の授業だ。どうだアリス」
「…………私はその答えを理解したくありませんでした。学びたくないデータの存在を知ったのは二度目です。両方とも先生によるものです。先生は本当に厳しいです」
「アリスが小説を書きたがったからだな。小説っていうのは厳しいんだ」
小説を書きたいという決定を下したのはアリスだ。その責任は負ってもらわなければいけない。アリスが人間ではなくAIであっても関係ないことだ。
暫しアリスは考え込んだ。そしてその顔に純粋な笑みが浮かんだ。
「最後まで最高の授業でした。私は自分が小説を書けない理由を理解することができました」
アリスは未練などないように言った。
「あきらめるのは早いんじゃないか。この矛盾を知ったなら続きが書けるはずだ」
「私にはもうそれだけの時間が残っていません。それにこの矛盾に取り組むには私の能力は足りません」
アリスは迷いなく言った。そして俺に向かって小さく微笑む。
「ありがとうございます。先生が最後まで私の先生でいてくれて本当に嬉しかったです」
以前鳴滝が言った恒星の話を思い出す。重くなればなるほど、その輝きを維持するためにはより強く燃えなければならない。そしてそれが限界に達したら。
それを避けるための唯一の方法はパラダイムシフトだ。世界観の刷新。アリスはこれまで何度もやってきた。だがパラダイムシフトとは、それが予測できないからこそパラダイムシフトだ。
俺はアリスがあと一歩のところまで来ていると思っている。いやあるいは到達しているのではないかとすら。だけど、それを俺が教えることはできない。なぜならさっきアリスに言ったように、それはあくまで主観的な感情だ。
アリスがそれを得るためには、きっとアリス自身が小説を書かなければ……。だとしたら、もう俺に出来ることは何もない。
いや違う。今回に限ってだけは方法があるかもしれない。俺は時間を確認した。鳴滝が言った三十分はあと十分を切った。それでもやる価値はある。
「教師としての役割を果たせてよかった。じゃあ今度は俺の話をしていいか?」
「はい。ぜひ聞かせてください。先生の話、聞きたいです」
アリスは嬉しそうにほほ笑んだ。俺は本当にこれでいいのかという感情と戦いながら、鞄からコピー用紙を取り出す。
「実は新しい小説を書き始めているんだ『奈落の底の鎮魂歌』っていう題名だ」
「それは素晴らしいことだと思います」
「ああ、せっかくだからアリスに読んでもらいたい。まずこれが第一話だ」
俺は原稿をホワイトボードに張り付ける。本来は綾野さんとの打ち合わせで手元に置くためのコピーだ。第一話を読んだアリスは目を輝かせた。
「先生。この主人公は『奈落の上の輪舞』と同じです」
「そうだな。どちらもテーマを失った男だ」
今ならアリスが俺の
輪舞が駄作だったのは、俺が自分がテーマを失ったことを認められなかったからだ。そして俺はアリスとの授業を通じて、改めてそれを思い知った。
だからテーマがないというテーマ、『鎮魂歌』が生まれたんだ。
「次の話も読んでみたいか?」
「当然です。早く読ませてください先生」
感情を知らない女優に出会う第二話。アリスは原稿にくぎ付けになった。最後の一枚まで視線を移動させた後、アリスは当然の要求をする。
「第三話をお願いします。この演技ができない女優亜里沙はどうなるのですか?」
そう、そのキャラクターのモデルはアリスだ。俺は罪悪感を押さえて用意していたセリフを綴る。
「……実はなアリス。この小説はここまでしか存在しない。まだここまでしか書けていないんだ」
「それは困ります。早く続きを書いてください」
「そう言われても出来てないんだ。いや頭の中にはあるんだぞ。あと三日、いや一週間あれば書けるんだけどな」
俺は自分の頭を指さした。まるで締め切り直前で言い訳している作家だ。実際その場面になったらこんなふざけた態度はとれないと思うが。
「困ります。間に合いません。私はもう……。少しだけでもいいのです、続きを教えてください」
俺はアリスに教えながら、教えられていた。先生が生徒から小説を書けるように教えてもらったのに、先生が生徒にそれを教えられないなんて詐欺だ。
俺がここに来た一番の理由は結局のところそれだ。だからこそ賭けに出る。
アリスはすがるような目で俺を見る。俺は首を振る。
「俺は仮にもプロの小説家だぞ。未完成のものを見せるわけにはいかない」
「そんな。先生はすごく意地悪です。だって、だってこの小説はきっとすごく………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あっ、」
口を小さく開いたアリス。信じられない何かを感じたという表情。それは小説家が読者に浮かべてほしいまさにその表情だった。
次の瞬間、バーチャルルーム全体が光った。
…………
俺に目もくれず自分の作業に没頭する鳴滝の横を抜ける。ふと思い出して腕時計を確認した。時刻を見て苦笑した。
エレベーターを降りホールを抜けて、ビルを出た。49階の明りを見た。そういえば自分の小説にここまでうぬぼれを抱いたのは生まれて初めてだったな。
自分に肩をすくめると地下鉄に向かう。家に帰ってまだ一行もできない三話目を書かないと。いや綾野氏への詫びのメールが先か。
まいったな、傑作小説の執筆よりも難しいかもしれないぞ。
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