第15話 独断専行
タクシーから降りた。
さっきまでのホテルより高く新規性のあるデザインの、歴史に欠けるビルがそびえ立っている。天を仰ぐ高さはまるで手の届かない場所へ通じる階段のように見える。
ビルの入り口に九重女史が待っていた。(元)編集者から建物前でお出迎えされるなんて初めてだな。さっき元じゃない編集者の約束をぶっちぎってきたことが頭によぎった。
九重女史に続いてエレベーターに乗りこんだ。九重女史が迎えてくれたのは俺一人じゃエレベーターに乗れないからだ。如何に最先端テクノロジー企業でもさっきの今で手続きは無理だろう。
「そう言えば、おたくの上司はよく承知しましたね」
「…………」
無言の九重女史に聞いた。まるで臨終の場に向かうような沈黙が嫌だったのだ。だが彼女は振り向かなかった。
「九重さん?」
「鳴滝は海野さんが来ることを知りません」
ベンチャー企業のエリート社員は硬い声で言った。
「えっ? あ、あれ? でも九重さんから電話してきて」
「あの連絡も含めて私の独断です」
「…………それってまずいのでは?」
社長自身が進めているプロジェクトの大事な時期に部外者を無断で招き入れる。シリコンバレーは実力主義で失敗に寛容、というのは小説のイメージのはずだ。実際には社員の権限を厳密に決めているんじゃなかったか。
「…………私は小説を読むのが好きなんですよ。だから編集者になりましたし、今も小説紹介チャンネルの仕事をしています」
「え、ええ?」
暗いオフィスに入った。消灯したLEDの下をまっすぐ歩きながら、九重女史はあらぬ方向に話を振った。俺は戸惑いながら相槌を打った。
「ただ社会に出るとね、読んでいてどうしても引っかかることが出るんですよ。ほら沖岳先生の『債券崩壊』の主人公みたいな行動です」
「…………」
「力のある作家が描き出す主人公は、あの行動しかありえないって読者に思わせます。でも読み終わって本を閉じた後、小説から自分の部屋に帰ってきたその瞬間です。一瞬冷めたものがよぎるというか」
それは作家という社会不適合者に幻滅したからでは? などと突っ込める雰囲気じゃなかった。今のこの状況とどう結びつくのか全く理解できない。内容には完全に同意なんだが。
自嘲めいた小さなため息が洗練されたオフィスに響いた。
「それで思ったんですよ。もし自分にも同じことが出来たら小説のリアリティーを信じられるかなって」
小説愛読者はそういうと奥のドアにカードキーを通した。そして開いたドアの向こうを指し示した。
まるで小説の登場人物の台詞に背中を押されるように、俺はバーチャルルームに入った。背後で扉が閉じた。
冷たいバーチャルルーム。その中央奥に物言わぬアリスの姿があった。彼女の身体からは空間に向けて多くの蛍光色のラインが伸びていた。服装は最後の授業で見た時のままだが、綺麗で生気のない顔は死に化粧のように見える。
いや、下手をしたらそれ以上に冷たい状況かもしれない。行われているのは彼女の
それを実行している一人の男が、俺に振り向いた。
メタグラフのCEO鳴滝総一郎は、入ってきた侵入者に一瞬怪訝な顔をした後「あなたはもうアリスの小説の教師ではないのですが」といった。
オールバックの髪の毛がほつれて額に張り付いている。最先端技術を使って何かとんでもないことを企んでいる黒幕として満点のキャラ描写だ。
「でもメタグラフの技術顧問を解雇された覚えはない」
圧倒的な悪役感を纏った男に、俺も不敵に答えた。小説家が小説の主人公みたいなこと言うなんてどうかしている。九重女史に当てられたらしい。
鳴滝は薄く笑った。
「あなたが小説家であろうと技術顧問であろうと、事ここに至っては何も出来ることはないと思いますが」
「どうだろうな。この世界に小説より難しいことはない。それに比べればまだ可能性があるんじゃないか」
「詭弁でしょう。確かに私は小説は一番難しいといった。だからこそ小説で訓練したAIが最高のAIになるという仮説を立てたのです。あなた方の長年の労苦のおかげで大量のデータがそろっているのは素晴らしいことですしね」
人類の文化の蓄積をデーターベース、いやソースだと言い切った。AIの進歩という自分の目的のために小説を餌として利用する男。小説家の敵としてはこれくらいじゃないとな。
「アリスが欠失データとして小説を書くことを要求したときは歓喜しました。私の仮説通りの結果だとね。もっとも教師データとして要求された小説家を調べた時は少々失望しましたが」
「そりゃ沖岳幸基の方がいいだろうな」
俺は鳴滝に押し付けられた最初の業務外業務を思い出して答えた。今思えばあれはアリスに最高の小説家との接点を持たせるための準備だったのではないか。
「とはいえすぐに評価を改めましたが。あなたがアリスにViCが作った世界の中でViCを観察させようとした時は正直驚きました。AI研究者顔負けの発想だと」
「嬉々として業務外業務を押し付けたわけだ」
俺としてはアリスにシオンのACを見せようとしたんじゃないかと疑っているけどな。
「今アリスの中にあるのはそれらの結果としての、奇跡のような学習成果です。そしてその貴重極まりないものがまさに失われようとしている。今やるべきことはアリスから得られるデータを少しでも次につなぐことです。それこそアリスがここまで存在してきた意義でしょう。そう思いませんか?」
「思わないな。シオンは己が作品を全うした。だがアリスはまだだろう」
最初からこいつが何を言おうと反対することは決めていた。大事なのは何を言うかではなく、どう思っているかだ。まさに小説のキャラクターで重要なところだぞ。
「アリスの小説はまだ未完だ。アリスのデータを引き継ぐViCが続きを書くわけじゃないだろ。いや仮に書いたとしても、それはアリスが書くものとは違うものだ」
「確か小説の世界には未完の名作よりも完成した駄作という言葉があったように記憶していますが」
「小説家として言わせてもらえば見てきたような嘘だな。実際には未完の名作は名作だし、駄作は完成しても駄作だ」
俺が小説教師だったら生徒にはとにかく完成させることに意味があると教える。それは作者にとっては重要な学習経験だからだ。
だが今そんなことは関係ない。アリスが書こうとしている小説が名作かどうかの話を、この男にしても仕方がない。
「アリスはいわばお前の作品だろう。それもお前にとっては傑作だ。作品とはそれが傑作であればあるほど、作者自身にも予想できない結末を作り出す。お前にはそれを信じる義務がある」
それが傑作の性質だからだ。それが文字で書かれていても、プログラムコードで書かれていても。あるいは
「小説家は口が上手いですね。ですがはったりでしょう」
「小説家の言うことなんて全部フィクションだ。だが、未来のことなんて全部フィクションの類だろう。シリコンバレーの言葉で未来を予測する最高の方法は未来を作ることだったか」
「見てきたような嘘ですね。その発言をした人物は作れない未来を無理に作ろうとして自分の会社を追われました。その後伝説となったのはあくまで技術的進歩が間に合ったからであって、私に言わせれば結果論です」
どちらも結果論だ。小説の生存バイアスのように。小説の主人公が魔王を必ず倒せるのは、魔王を倒せなかった主人公の物語は小説にならなかったから。
「質問のベクトルを変えましょう。あなたは小説を生業とするものとしてAIが小説を書けるようになることが怖くないんですか」
「怖いな。だがそれとは別の感情もある。俺は小説家であると同時にアリスの先生であり、そしてアリスの小説の読者だ」
俺は九重女史から受け取ったカード、アリスに送ったメッセージを見せた。鳴滝の表情が歪んだ。
「要するに読者に結末をゆだねる小説ですか。あれほとんどの読者に通じてませんよ。作者の自己満足では?」
「じゃあ分かるように言おう。お前がさっき言ったのは鳴滝、作者であるお前のテーマだ。作品であるアリスのテーマじゃない」
「……何を言っている」
「作者に予想できる程度の結末なんて、くだらないと言ってるんだ。傑作を駄作にするつもりか」
「…………そんなご都合主義な言葉で誤魔化されません。あなたは書けなくなった小説家でしょう。アリスは出来なかった、貴方に何が出来る」
「残念。いま新しいのを書き始めてる。今の俺は最高の教師データだ。何しろこの新作はアリスとの授業の中で生まれたようなものだからな」
俺の言葉に鳴滝はぎょっとした顔になった。張り付いた前髪がその片目を隠した。俺と話しながらも止まっていなかった指が停止した。
「今一度あなたに小説家としての仕事をしてもらいましょう。ただし三十分だけだ。それが終わったらどんな傑作になるとしても打ち切ります」
鳴滝はそう言うとバーチャルルームを出て行った。恐ろしいことを言いやがって。編集者にそれを言われたら十中八九、いや千に一つも救いはないんだぞ。
まあいい、どちらにしてもやれることをやるだけだ。この話の終わり方なんて俺もお前も、そしてアリスも知らないんだから。
「アリス。最後の授業を始めよう」
俺は教え子に言った。アリスの目が薄く開いた。
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