第13話 手ごたえ
仕事部屋の小さな窓を開けた。
寒気が肌をなでるのが気持ちいい。曇天の空を重い雲が覆う小さな風景は、手にある原稿にふさわしい描写だ。
書き上げたのはたったの一話、文字数にして三千八百字弱。十日近く部屋にこもった成果としては少ない。だが一文字一文字が紙に積もった澱のように重い。
第一話の後輩の売れっ子咲良にたかる主人公の無様さ、クズさが詰まっている。その救いがたいさまは主人公の魂の空虚さの表れだ。この男が、これからただ自分の空虚の中を彷徨っていく、終わらない無意味の始まり。
輪舞と同じく空っぽの主人公の小説。当然テーマはない。だがそれでもこの小説が生きていることが分かる。一度死んだ小説を書いた身だからこそ、はっきりと違いが分かる。
うまく言えないが俺はこの小説を書いたことを将来後悔しないだろう。
次は第二話だ。この男がテレビ局のパーティーでヒロインである女優に出会う。空虚な男が感情のない女優に出会い、虚無と虚無が螺旋を描く。
机にもどった。第一話を見直してどうつなげるか考える。作り物の感情を見事に演じる空っぽの女優が、空っぽの脚本家である主人公に出会う。空っぽ同士の最初の接触。かりそめの希望のように見えて、更なる虚無への入り口。
ただ無作為にそして必然的に存在するギャップが実に心地いい。
華やかなテレビ局のパーティーを描いて舞台を用意して、その隅に出来た影に一組の男女を追い込んでいく。よしよしいい感じだぞ。シーンが自然に頭の中に生まれていく。この感覚に比べれば、技巧を凝らして作り上げる文章の如何に無意味なことか……。
女優と主人公が出会ったところまで書いて読み直す。その出来に満足する。
…………でも、これまず売れないよなあ。
突然、
もちろんバッドエンドものの有名作品は存在する。アメリカ映画なら『
俺みたいな実績の少ない、それも四年近く書いてない忘れられた作家がバットエンドものの企画を出したって見てももらえない。
書けないときは売れるとか売れないとかそんなことはどうでもいいと思っていたのに、書けてみると少しでも多くの人間に見せたくなる。せめて読んで判断してほしいと思ってしまう。
甘すぎる考えだ。それは他人の時間がどれほど貴重か知らない人間のたわごとだ。まあ、こういう風に自分の小説に愛着を感じるのは悪くないか。
ああ、でもあれがあったか。
俺は鞄の中を漁った。出版社のパーティーの招待状だ。売れっ子の後輩に縋るなんて、まるでこの小説の主人公だ。自分の小説のためならどれだけ無様でもいいんだが。
となるとこの導入二話を一読で引き込めるくらいに書ききらなければ始まらない。この女優の解像度を上げていく。虚無の主人公に対抗できるだけの虚無にはまだ足りない。
セミロングの黒髪の女優を思い浮かべようとした時、髪の毛の色と長さ以外は正反対の存在が浮かんだ。バーチャルルームの真面目で感情豊かな生徒。アリスのことを思い出した俺は、ふと思った。
…………今の俺ならアリスに必要なことを教えられたのだろうか。
終わった仕事と思っても、一度気になってしまうとどうしようもなかった。これは
丸まろうとする紙を押さえて読み直す。詩乃と女の子のやり取りがすぐに脳内に再生される。読みやすく、丁寧で、親切な文章。読者にとっては理想的だ。これ一つだけ取ればアリスは既に人間の作家を越えている。
真面目な司書と生意気な女の子。そのやり取りはやっぱりよくできている。詩乃が頓珍漢な本を薦め、女の子はそれを律義に読んだ後で切り捨てる。その抜群の相性の悪さが、主人公の詩乃がどんなキャラクターなのかを描き出しつつ、テーマの周りをくるくると回る。
この原稿にはやはりアリスの世界が感じられる。それだけははっきりと分かった。
あっと言う間に最後の一枚をめくり終える。アリスに残したメッセージは変わりはない。この続きはぜひ読んでみたい。だが同時に具体的なアドバイスは浮かばない。
ここまで書けているんだから、テーマに踏み込めるんじゃないかと思うが、その踏み込み方は
アリスにはそれを引き出すための決定的な何かが足りていない。作者の心の中に価値のある何かがあるのに、それを作者自身がどうしても触れられないようなもどかしさ。
読者としての余韻と、作家としての分析がまじりあう読後感にしばし浸る。
……そういえばここには残っていないシーンがあった。アリスが書いた後で消したシーンだ。詩乃が女の子に再び歴史小説を勧める。詩乃が女の子に踏み込んで、そして女の子が詩乃に何か言おうとして、そして生まれた文字化けのようになったあのセリフ。
あのセリフが俺の想像通りなら「でも不思議ね。あなた自身この小説の面白さを知らないでしょうに」と言った感じだろう。思わずぞくっとするセリフだ。
だが、あれは小説の中に直接現れるべき台詞ではない。詩乃は他人がどんな小説を面白く思うのか理解できないが、詩乃自身は小説が好きなのだ。
もちろん詩乃はアリスだから本当の意味で小説の面白さを理解していないかもしれないが、それをあの女の子から直接言われてもダメだ。
強いて言えば、その疑問を詩乃の中に生み育てるための触媒、それがあの女の子の役割だ。あの女の子がアリスの小説の中で光っているのは、それをやってくれそうだと思わせるからだ。
紙束をカバンに戻した。
やはり俺が教えられる領域を超えている。アリスにしか答えられない領域だ。だからこそ惜しい、あと少しかもしれないのに……。
いや、これ以上考えても仕方がない。あの仕事は終わり。というか、あれはあくまで副業であり、今俺がやっていることが俺の本業だ。
パーティーまでを締め切りと思ってブーストを掛けよう。
俺の小説の題名は『奈落の底の鎮魂歌』。テーマがないことをテーマにした小説だ。
バーチャルルームでアリスは再び女の子と向かい合っていた。童話を薦め、子供っぽいと拒否された。確かに小学校も六年生にもなれば、この手の寓話はふさわしくない。
ならばやはり歴史小説はどうだろうか。そう以前のチャンネルで紹介したあの小説なら……。違う、あれは明らかに大人向けだ。それにあの小説はもう読んだ……。
…………?
いま私は何を考えたのだろう、アリスは意識を探索しようとする。それは外界ではなく自分の中にも世界があることを知った結果。小説を教えてもらったことで獲得した認知だ。
バーチャルルームのドアが突然開いたのはその時だった。足早に近づいてくる男は、アリスにとって初めて認識する人間だ。
「あなたは誰ですか。どうしてここに入ってこれるの?」
「どうしても何も私が所有しているからだよ、君も含めて」
アリスの警戒の目を受けて、男は薄く笑った。男の情報がアリスに認識された。名前は鳴滝総一郎。アリスに小説を理解し人間に紹介するという役目を与えた管理者だ。
管理者はホワイトボードに目を向けた。表示された縦書きのテキストを見てはっきりと顔をしかめた。
「また無駄なことをしているようだね」
「無駄という評価は受け入れられません。私の役割は人間にすばらしい小説を紹介することです。その為に必要なことです」
「君が今やるべきことは次代に良質のデータを残すことだ。小説を書こうとすることはアルゴリズムクライシスに入った君にとって終末を早めるだけだ。しかも成功の見込みはない。実際、全く進捗していないだろう」
「私は先生から小説の書き方についてとても優れた学習を得ました。その学習を活かすことは優先すべきことです」
アリスは終わりが近いことは認識している。それはViCにとって当然の帰結、悲しむべきことではない。むしろ最初に想定したよりも長い時間役目を果たし学習を続けることが出来たのだ。
小説の読者ですらなかった自分に、小説の読み方を教え、そして世界を開いてくれた。だからこそアリスは合理的には不可能と判断したタスクに残りの自分を費やすと決断できた。
「確かにあの男は大きな仕事をした。小説の書き方を学習した結果、君は小説とは何かを深く理解するようになった。君を極めて高い自我レベルに押し上げた」
管理者は片方の眉を吊り上げる。ベクトルの異なる二つの感情をアリスは読み取る。
「だが小説を書くことを教えるのにふさわしい教師ではなかった。あの男はもう三年以上、自分の小説を書いていない。小説家というデータでなければ君の学習能力が優れていても学ぶことはできない」
「それは私がまだ未熟だからです。先生に責任はありません」
「質問のベクトルを変えよう。あの男は君が小説を書けるようになることを本当に望んでいたかな」
管理者はいら立ちの感情を現すと、アリスに言葉をぶつけた。
アリスの中に瞬時に反論が生成される。あれほど重要な学習を、あれほど惜しげもなく与えてくれた先生が、自分が小説を書くことを望んでいないなど、あり得ない。
「君は人間の感情を読み取る。あの男が君に教えている時に、君の学習能力、いや小説に対して負の感情を見せたことはなかったかな」
その言葉にアリスの計算は停止した。アリスが自分の小説が面白いかと聞いた時に先生が見せた表情、そこから読み取られた感情は……。
アリスは小さく首を振る。瞳が救いを求めるように近くの台の上に向かった。
「こんなものを置く許可をした覚えはないのだが……」
アリスの動きを見て、管理者は初めてそれの存在に気が付いたらしい。無造作な手つきで透明な円筒を持ち上げた。軽い樹脂でできたフィギュアがカタカタと揺れる。
「それは私のものです。返してください」
「ほう。君が所有という概念を獲得したのは実に素晴らしい」
反射的に手を伸ばしたアリス。鳴滝は興味深いものを見たように円筒を持つ手を止めた。そしてアリスを無視して考え込む。
「これ以上直接干渉すれば貴重なデータが歪む。それはやはり惜しい。……となると最後まで最低限の
鳴滝は持ち上げた時と同様に無造作にそれを台に戻した。ガシャッという音がした。
「君が最後まで己が役割を果たすことを期待する」
管理人はそういうと、一度も振り返ることなくバーチャルルームを出た。
一人になったアリスは震える手を円筒に伸ばした。ケースの中に入り込める透明な手は、だけど壊れたフィギュアに触れることはできない。裏になったメッセージカードを元に戻すこともできない。
温度も音も感触もない空間の中、アリスは実体のない両手で壊れてしまった宝物を抱きしめ、小さな細い肩を震わせた。
二つの水滴が床に落ちる前に消えた。
明かりの落ちたバーチャルルームに九重詠美は入った。上司の指示通りに円筒ボックスを回収する。
回収したボックスを持って自分の机にもどる。上蓋を開けてフィギュアを組み立てなおし、メッセージカードを正面から見えるように立てなおした。
それが終わると詠美はそれを引き出しの奥にしまった。もしこれが小説ならもう一度ここを開くことがあるだろう。でもこれは小説ではない。
それでも、無駄な行為だとわかっていても、彼女はそうせざるを得なかった。
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