第11話 それぞれの本業

 目の前に縦に並ぶテキストの列。俺の指がついさっきキーボードで生み出したものだ。一行あたり四十八文字が約百行、実際の文字数は3851字。所要時間は二時間くらいか? タイピングスピードは大分戻ってきた。


「うん。ダメだなこれ」


 俺は文章のすべてを未練なく消去した。一人のキャラクターの日常が消える。これで五回目。予想通りこの小説は難物だ。そもそもろくに企画を立てずに小説を書き始めるなんて何時ぶりだろうか。


 頭の中に主人公である一人の男のイメージだけがある。この男はいわば俺の最後の小説『奈落の上の輪舞』の主人公だ。いや、その成れの果てと言うべきだろうか。


 輪舞の主人公はコンサルタントだった。多くの企業の問題を知識と交渉術で鮮やかに解決する。今考えると社会派ミステリの巨匠沖岳幸基の影響を受けている。にもかかわらずエンタメに振ってるんだから始末に負えない。


 輪舞の主人公は作中で次々に問題を解決していく。それはすべて他人の問題だ。主人公自身には解決したいものなど何もない。主人公はただの知識と技術の入れ物だ。予定されたトラブル、予定されたヒント、予定された解決へ、決められたコースをたどるジェットコースターの乗客に過ぎない。


 必要な知識を集め、構成を練り上げ読者にページをめくらせることだけを目的に書かれた小説とでも言おうか。


 俺がそれに気が付いたのは本となった輪舞を読みなおした時。すべてが遅かった、いや遅いも何も最初から始まっていない、存在すべきではない小説だったとすら思った。


 だが俺は輪舞の主人公をもう一度復活させようとしている。輪舞の主人公の真のテーマに気が付いたから? とんでもない、そんなものは存在しない。ただテーマが存在しないという絶望が存在している。


 沖岳幸基は「私の小説にはテーマも主人公も存在しない」といった。だが俺がこれから書こうとしている小説にはテーマは存在しないが主人公は存在する。つまりは確信犯(誤用)というわけだ。


 もちろん輪舞の主人公と今書いている新作の主人公は全く違う人間だ。主人公の職業は脚本家。小さな劇団で気心がしれたメンバー相手に脚本を書いていたが、劇団がネットに上げた演劇が有名になり、主人公はテレビドラマの脚本を書くチャンスを得る。そして彼は自分の脚本には何もなかったことを思い知るのだ。彼の脚本に意味を与えていたのは劇団の役者の熱意と才能だった。


 ここまでがバックグラウンド。問題は自分にはテーマがないと気が付いた主人公がこの後どうするかだ。


 紆余曲折の末テーマを取り戻し、素晴らしい脚本を書く。取り戻す過程は三幕構成に従って、読者に飽きさせないタイミングで転機となるイベントを起こす。例えば後輩の脚本家志望に技術を教えることで立ち直るとか。素晴らしい女優と出会うとか。


 如何にもなセオリーが両手の指で収まらないほど湧いてくる。


 ははっ、いまさらそんな虚構フィクションを書いてどうする。俺のやることは一つだ。テーマが存在しない男そのものを描き出す。主人公は復活なんてしない、ただひたすら落ちていく。全てのイベントは主人公がテーマをもう取り戻せないことを描くためだけに存在する。


 そういった主人公を掘り出すために、今はただひたすら一人の男の日常を描いては捨てている。


 さっきまで書いていたのは主人公が自分の部屋でひたすらアルコールをあおっていたシーンだ。典型的な落ちぶれた人間だ。全く足りない。だから消した。テーマを失った男は、もっとどうしようもなく、もっと無様で。虚無そのもので。動く意味もないものが動いている。そういうキャラクターだ。


 酒の力で虚無を紛らわす作り物ではない。


 虚無だからと一人にしておいたのが間違いだったかもしれない。例えばそうだな……後輩の売れっ子にたかるっていうのはどうだ。実にクズ的でいい。そう思ってしばらくキーボードを叩いた。


 出来上がった文章を見直し、消去する。これじゃダメだ。なんていうかこいつのクズっぷりが作り物めいている。相手をする売れっ子の後輩脚本家もどうにも才能が感じられない。


 こうなったら実際に才能ある後輩を取材するか。


 俺は仕事場からリビングに出て、テーブルに置いた携帯を取った。いつの間にか火曜日じゃないか。うわぁ、三日間書き続けて一行も進んでないとかないわ。俺は液晶画面に映る髭面に苦笑した。


 書けないことに希望を感じるなんて実に小説家チックじゃないか。小説が書けるなら、小説が書けないことなんて些細な問題だ。まあ、以前の俺なら問題を解決しようとしただろうけど。


 咲季の連絡先を指で探す。出てきた受話器マークに指を置く。


 ……そういえば咲季のやつは忙しいか。タイミング的には第一校待ちだと思うけど、遅れに遅れた出版ペースを考えれば出版社は超特急で動いているだろうし。


 いやこの主人公がそんな殊勝なことを考えるか? 答えは否だ。主人公はサイコパスじゃないけど、本来持っている感情を機能させるための何かを失っている。


 ……作者おれのこの思考はサイコパスなきがするがまあいいや。


「ああ咲季か。ええっとだな、実はちょっとタカリ……じゃなくて新しい小説のことで力を借りたいことがあってな……」


 咲季との会話を終えた後、リマインダーが光っていることに気が付いた。


 そう言えばアリスのチャンネルの曜日だった。


 少し迷ったが、タップする。




「今回の読書会は『虎鼠のとき』です。著者は岡豊おこう蝙蝠へんぷく先生」


 いつも通りのアリスの明るく聞きやすい声でチャンネルは始まった。『虎鼠の秋』は聞いたことがある。マイナーな戦国武将に焦点を当てる歴史小説家の新作だったか。主人公は武田信玄と上杉謙信という二人の英雄の衝突である川中島、の近くの豪族だ。今年の大江ドラマに合わせて出版社が売り込みたいのかな?


「この作品の時代背景は戦国後期ですが……」


 アリスの綺麗で透き通った声と共に、画面が様子を変えた。図書館の資料室のような光景になる。年月を経て茶色く変色した絵図、端がちぎれ墨が薄れた古文書を背景に、アリスは穏やかで明るい声で説明を始める。


「本作のテーマは地に足の着いた戦国武将です。戦国後期の惣村と呼ばれる村落を支配、かつそれに縛られる国衆と呼ばれる在地領主と彼らを支配する戦国大名の関係を通じて……」


 アリスは主人公が信玄と謙信という二人の戦国大名の対立にどう翻弄されるか。それが戦場ではなく領地を舞台にしてどう描写されるかをネタバレにならないように、興味を引くように説明していく。


 架空の図書館からそこにある郷土資料室、そして戦国時代の惣村の学術的な復元図まで、本来説明過多になりそうな内容がするっと入ってくる。


 改めて凄いと思った。小説紹介者として確実に成長している。今日の帰りに本屋によって買おうかという気になっているくらいだ。まあ、今の俺に読む暇はないが。


 でも、あの資料館のネタはどうせなら小説に使ってほしかったな。詩乃が女の子を郷土資料館に連れて行って……って、アリスの本業はこっちだ。


 アリスはいつも通りだ。っていうか俺が首になったからってアリスがどうこうなるはずもない。俺もアリスも本業に集中、何も問題はない。


 俺は少し安心して、携帯をテーブルに置くとコートを取りに立ち上がった。


 ……そういえば、俺が首になったのに新コーナーは始まらないんだな。っとそろそろ出ないと咲季との約束に遅れてしまう。


 いや待てよいっそ誘っておいて自分が遅れるくらいの方が…………。ってそれは流石にダメだろ。創作と現実は区別しないと。


 奈落の底のその下を掘り起こそう。何もない地面にスコップを突き立て土塊の山を作る。パンドラの箱の奥に希望はなくとも絶望だけは残っているはずだ。





「じゃあアリス、この小説の一番のポイントはどこだと考える?」

「はい。この小説で一番大事なシーンは276ページから始まる、主人公がギャンブルをしているシーンです。主人公は作家で、ベストセラーになった次の作品の売れ行きにストレスを感じています。このシーンは主人公が小説がヒットするかどうかに確率過程が介在することを受け入れておらず、次も同じ成功を望んでいる心情を表現するための情景です」

「それをこのギャンブルで負けていることで表現しているというわけね。OK。じゃあ次は主人公のどういったポイントに読者は共感すると思う?」

「はい。読者はこの主人公の悩みを通じて、特別な才能を持った人間でも不条理な感情を抱え、理不尽な行動をとることに共感すると思います」


 九重詠美の質問にアリスは答える。いつも通り明確な答えだ。ギャンブルの描写の意味の読み取り、そこから読者がどう感情を動かされるか。何よりも作品のテーマがどういった世界としてあらわされているか。


「うん。台本の基本はこれでいいと思う。題材が小説家だったからちょっと心配だったけど」

「どういうことでしょうか?」

「あっ、ええっとね。その……アリスも小説を書くという経験をしたから、ほら客観性を保てるかとか」

「この小説の主人公である作家の悩みは私が小説を書く際に克服できていない問題とは異なるものです。この小説の主人公の悩みはより普遍的なもので、だからこそ多くの読者の感情を動かし、この小説を面白いと感じさせるのではないでしょうか」

「え、ええ。アリスの言っていることは間違いないわ」


 詠美は舌を巻いた。客観と主観、論理と感情、人間以上に小説を理解しているように感じる。そしてそれを通じて人間がこの小説のどこに惹かれるのかを明確に認識している。チャンネルのリスナーはアリスと自分が同じ小説せかいを共有したと感じるだろう。


 あるいは今がアリスの小説紹介ViCとしての最盛期なのかもしれない。


 詠美は首を振った。客観性を保てていないのは自分の方だ。


「じゃあ台本を出力してみて」

「分かりました」


 詠美はアリスが出力した台本を見る。思わず眉根が寄った。


「何か問題があるでしょうか、九重さん」

「ええ、そうね。……内容は問題なし。アリス、疲れたりはしていない?」

「はい。私はまだ大丈夫です。役割を果たせます」

「わかったわ。じゃあ今日の打ち合わせはここまでにするわ。お疲れ様」


 詠美はバーチャルルームを出てオフィスの自分の席に戻った。さっきアリスが出力した台本をプリントアウトする。


 そこには新人作家の初稿くらいの誤字、脱字、そして表現の揺れがあった。つまり普通の人間の平均値よりはきちんとしているが、アリスが決してしないようなミスが存在している。


 詠美はデスクの奥から赤い鉛筆を取り出し原稿に朱を入れ始める。アリスのリソースを節約する為に出来ることはしよう、そう思いながら。

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