第10話 何もない小説家

 目を覚ましたら昼だった。顔を傾けてリビングのテーブルを見ると、アルミ缶が並んでいた。アルコールに浮かぶ脳の中で記憶を探る。


 地下鉄駅から出た後、自宅近くのコンビニでカゴに酒を放り込んだことを思い出した。自宅で飲むなんてどれくらいぶりだろうか。基本的に一人で酒を飲まない性分だった。それに家での飲酒は何処までも落ちていける感じが怖い。実に小説家アーティストらしくない小物っぷりだ。


 っていうか冬だっていうのにリビングで寝るとは。アルミ缶の横に転がるエアコンのコントローラーは25度だった。全く記憶にないが生存本能は自動運転していたらしい。まあ、そうじゃないと人間は呼吸だって忘れるからな。


 頭を押さえながら水を求めてキッチンに行く。コップに注いだ水道水を半分ほど飲む。人心地付くと、もう一つの生存本能が目覚めた。さっきのテーブルにあったのがアルミ缶だけ。胃の中が空っぽだ。


 シンクで顔だけ洗った後コートをひっかけた。エアコンの設定温度を思い出し、20度まで下げる。自分の理性的な防衛本能にあきれた時、俺は地下鉄に乗る前のことを思い出した。




「依頼終了?」


 保護者によって強制的に授業を中断させられた俺はCEOルームで鳴滝に間抜け面をさらしていた。


「ええ海野さんにお仕事を依頼するのは今日が最後です」

「さっきの授業が上手く行っていないように見えたのは分かるが、あれは――」

「誤解していますね。本日までの海野さんの働きに私は大変満足しています。これはメタグラフ側の方針転換、つまりアリスに小説を書かせるプロジェクトはここまでということです。海野さんには突然のことになってしまいました。これまでの貢献を加味して成功報酬を用意しましょう」


 俺の携帯がなった。成功報酬? どこに成功がある。


「アリスに小説を書かせるのをやめるとはどういうことだ。一体何の権利が…………」


 そこまで言って自分が非現実的なことを言っていることに気が付いた。


「…………欠失データだったか。アリスの学習のためには小説を書くのは必要なことじゃなかったのか」

「ええ、そして実際ここまで大きな成果を上げてきました。繰り返しますがこの点に置いて私は海野さんを大いに評価しています。ですが」


 鳴滝は珍しく言葉を止めた。


「最近はリソースがかかりすぎなのです。特に先ほどの授業の最後では、アリスは短期間に大量のリソースを消費しました」

「そうかもしれないが。そもそも小説を書くというのはそういうことなんだ」


 というかあの矛盾だ。あの矛盾はおそらく価値があって……。くそ、小説を書かない人間にどうやって説明したらいいんだ。


「それは人間の場合でしょう。では言い方を変えましょう。海野さん。あなたは今アリスに自分に出来ないことを要求しているとは思いませんか?」


 心の中のキーボードの上をさまよっていた指が一瞬で硬直した。


 目の前の男は小説について何も理解していない。だが、今この男が俺という小説家について言ったことを否定できない。


 急に胃が重くなった。これまでの授業に手ごたえを感じていたのは俺の錯覚だとしたら?


 アリスのテーマが進行しないのは、俺の中にアリスに教えるべきデータが存在しないからだったとしたら。俺がアリスにテーマを与える必要はない。だがアリスが自分の中にある自分のテーマを探求する術を学ぶためには、教師役である俺にテーマを探求する小説家としての本質がなければいけないとしたら。


 最初から小説を書くように出来ている人間と、それを一から学ばなければいけないアリス。俺の中にテーマがないから、アリスが自分の中にあるテーマの探求方法を学べない。


 目の前の男が言っていることはもしかして正しいのではないか。


「…………ならもっといい教師を探すというのはどうだ。引継ぎには協力する。報酬ならこれでいい」

「三度目です。私はこれまでの海野さんの貢献に満足しています」


 俺は携帯の入ったポケットを指さして言った。鳴滝は哀れなものを見るように薄く笑った。


「…………これからアリスはどうなるんだ?」

「これまで通り小説紹介チャンネルのViCの役割を果たしてもらいます。海野さんから学んだこともそこで活かされるでしょう」


 その声音に経営者としての揺るがない意思を感じた。


 アリスはこのメタグラフの事業の一部。アリスにとって鳴滝の言っていることこそが本業だ。そもそもアリスが小説を書こうとしたのもその本業のパフォーマンスを上げることが目的。どこにもおかしなことはない。嫌になるほど正しいプロットだ。


 俺に出来ることは何もないという諦観が忍び寄る。それでも最後に一つ聞かざるを得なかった。


「アリスがこれまで書いた小説はどうする」

「ああそんなものもありましたね……。最初の契約条件では先生の著作物としてもらっていいことにしていましたか。データを持って行ってくださって結構ですよ」


 鳴滝はあっさりとそう言った。あの小説が失敗作だと言わんばかり、いやこの男にとってはそうなのだ。


「最後に少しだけアリスと話していいか」

「残念ながらリソースがありません。言った通り先ほどの授業でアリスは最後大量のリソースを使っていますので」

「メッセージを残すのは?」

「…………それくらいでしたら認めましょう」

「ちょっと考える時間をくれ」

「後で九重さんに送ってください」


 鳴滝はそう言うと椅子を回転させて窓を向いた。俺は黙ってCEOルームから出た。


 メタグラフから出る前にオフィスを振り返った。改めてみると俺が働いていたとは思えないくらい立派なオフィスだ。CEOルームに向かう九重女史の背中が別世界の住人に見える。


 完璧に加速度がコントロールをされたエレベーターは滑らかに一階に到達した。エレベーターを出た。これで無職だ。そう思った瞬間懐の携帯に手が伸びた。


「……しばらくは困らないな」


 最後まで金払いだけは最高の雇い主だった。シリコンバレー流には最後まで慣れなかったけど。


 ビルから出た俺は振り返る。高いビルの真ん中の少し下、アリスのバーチャルルームがある場所を見た。


 アリスに小説を書くのをやめさせるという鳴滝の方針に俺は納得していない。だからと言って俺に出来ることはもう何もない、そう思って地下鉄に向かおうとした時、俺は気が付いた。


 もしかしたら俺は少しだけ…………。




 ゴトっ。


 カップみそ汁とパンというどう考えても適当に選んだものを手にテーブルに着いた。ちなみにコンビニではなくドラッグストアまで足を延ばそうか考えた末にやめた。あの仕事を始める前より財務状況は改善している。


 アリスに小説を教えることで、自分はまだ小説に関わった仕事をしていると自我を保っていたのかもしれない。実に笑える話じゃないか。その仕事に完全に失敗したのに。


 床に置かれた物体に足をぶつけた。こぼれそうになっているコピー用紙が見えた。


 アルミ缶を横にどけ、コンビニの店員さんが付けてくれたウエットティッシュでテーブルを拭いた後、原稿を広げる。


 図書館の中での詩乃と女の子とのやり取り。二人ともしっかりキャラが立っている。やり取りは時にぎすぎすしていて、時に違和感が零ではないが、生き生きとしていると思う。詩乃の中にはアリスがいて、そのアリスが女の子によって引き出されている。


 派手な小説ではないが、しっかりと何らかの芯の存在を感じさせる。だから俺はアリスにはテーマがあったのだと思う。だが、本当にそうだったのだろうか。


 最後の授業、アリスはこの女の子を嫌いだといった。もし俺がこの小説の作者だったら、この女の子を嫌うことはない。むしろ頼りにするだろう。


 どうしたらよかったのか、答えが解らない。いや俺が解っても仕方ない。俺とアリスの答えは間違いなく違うだろうし、そうでなければいけない。


 ならやはり問題はそれを引き出す指導が出来なかったこと自体か。


 俺が小説家として空っぽだったから。どれだけ技術や知識を知っていても、結局本当にアリスが必要とする一つを教えられない人間だったからか。


 今やそれが間違いのない答えに見える。


 アリスに小説を教えることで、俺自身いろいろな経験をした。沖岳幸基に会った時は、テーマとは何かを改めて思い知らされた。アリスと本格ミステリを書いた時は、確かに筆が動く感覚を取り戻した気がした。


 教えるということは自分が学んできたものを確認する行為だ。そして結局、俺の中にテーマは残っていなかった。あったのは技術と知識だけだった。つまり俺は輪舞から一歩も進んでいない。


 だからこそアリスのテーマを引き出す手助けが俺にはできなかったのだろう。そしてだからこそ、あの時のアリスの質問にきちんと答えられなかったのだ。


 そしてだからこそビルを出るときに俺は少しほっとしたのではないか。アリスは俺のことを「先生」と呼んでくれたが、俺は……。


 そう言えばアリスが『奈落の上の輪舞』をどうして評価していたのか最後まで分からなかったな。テーマを求めていたアリスが、テーマがない技術だけのあの小説の何を評価したのだろうか。


 俺は仕事場の押し入れに向かった。奥の段ボールから最後の著作を引き出す。


 リビングまで戻って輪舞を読みなおす。何の瑕疵もなく可否もない無意味な文章が頭を通り過ぎる。以前読み返そうとした時は吐き気がしたが、今はもうそんな感覚すらない。


 やっぱり空っぽだ。これを書いた作者の中には何もない。テーマもないのに技術だけで空っぽの箱を作る作者がはっきり見える。


 テーマがない俺に書けるものはやはりこの輪舞みたいな空っぽだけだ。やはり俺には小説の書き方を教えることなど…………。


 ……いや今の俺ならこうは書かない。


 なぜかそんな考えが浮かんだ。空っぽの作者が書いた小説というのは、もっと空っぽにできる。テーマがないということがどういうことなのか、俺はあの仕事を通じて突き付けられて来た。


 あまりに空しい結論に脱力した。


 いやここは虚しいと書くべきだろうか。それともムナシイか。『空しい』は物理的客観的な感触を重視して『虚しい』は主観的心理的感覚を重視、そして『ムナシイ』はそのどちらとも言いようのない何かを表現するための言葉だ。


 未だに小説の教師役みたいなことを考えたことに改めて呆れた。俺は輪舞を閉じて押し入れの箱に突っ込もうとして、


 突然天啓が走った。


 もしかしたらテーマがないということが……になるんじゃないか。


 一瞬自分がおかしくなったかと思った。そのアイデアは明らかに矛盾していたからだ。だが、俺はずっと探していたんじゃないか。自分の中にある自分で自分に突き付けるこういった矛盾を。


 がたっとテーブルがなった。カラカラと甲高く空虚な音を立ててアルミ缶がテーブルから転がり落ちる。最後に落ちた缶が重い音を立てた。炭酸の抜けた発泡酒が床を濡らす。


 だが俺はそんなことは全く気にならなくなっていた。


 そうだ、まずは地下鉄に乗っている男から始めよう。男は小説家…………いや脚本家にしよう。


 俺はこぼれる酒を放ったまま仕事部屋に飛び込んだ。

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