第9話 授業参観
「こほん。それじゃあ今日の授業を開始する」
「はい。よろしくお願いします」
アリスはいつものように礼儀正しく頭を下げた後、俺を見て小さく目を瞬かせた。多分いつもよりも顔がこわばっているのだろう。俺に続いてバーチャルルームに入ってきて壁際に立った男のせいだ。
授業参観日の教師というのはこういう気分なのだろうか。例え気に食わなくても保護者ならぬ雇い主だ、仕事を見学したいと言われば断われない。それがついさっき聞かされたばかりでも。
「まずこれまでの流れをおさらいしよう。最初にアリスが立てた企画の説明をしてくれ」
「分かりました。私の小説の企画は、『小説の面白さは小説と読者の心の間に生まれる』というテーマを『図書館司書である主人公詩乃が来館者である人間の本の選択を手助けすることを』通じて描くことです」
アリスは小さく首を傾げた後、自分の企画を説明した。
しかし後ろに立っている鳴滝を全く意識していないのはいつも通りだ。
「アリスは今のテーマとコンセプトを元に、ここまで導入部分を書いてきたわけだが。要約できるか?」
「はい。第一話では詩乃の元に夏休みの読書感想文の課題を探している女の子が……」
アリスの要約は完璧なので、俺は背後の男の様子を観察する。鳴滝は時々虚空に目をやっている。きっと俺とは別の何かが映っているのだろう。これが小説なら実に分かりにくい表現だ。いっそノートパソコンを持ち込んでキーボードを打ってくれといいたい。
「先生、どうでしょうか」
気が付くとアリスがホワイトボードに四話分の概要を表示していた。スーパーにヨーグルトを買いに行く話までだ。
「これでいい。じゃあ最後に現在の問題だな」
「はい。最初の課題である読書感想文の対象図書を探している女の子に、多くの本を勧めたのですが一向に受け入れてくれません。失敗を続けています」
「よし。この問題を解決する前に、アリスが今いった失敗には二つの意味があることを区別しよう」
「どういうことでしょうか」
「物語の中の失敗か、テーマの失敗かだ」
物語の中の失敗とテーマの進行の失敗は同義じゃない。詩乃が失敗しても、それでテーマが進むならそれでいいし、成功してもテーマが進まないのなら駄目だ。テーマが進むのとストーリーが進むことは必ずしも同義ではない。
例えば科学書を薦めるシーンも、ホラー小説を薦めるシーンも、シーン単独としては普通に読めるし、ストーリーは進んでいるように見える。
物語が進んでいるのにテーマが進んでいない小説は実はいくらでもある。竜頭蛇尾に終わったり、最後に無理やりつじつまを合わせようとして、最後まで読んだ読者を失望させる小説は多いのだ。
「……一冊目の歴史小説の失敗は物語の中の予定通りの必要な失敗でした。一方で科学書やホラー小説はテーマの失敗と言えます」
「つまり、詩乃はその失敗を通じて女の子の「面白さ」を理解していないわけだ。いわば学習の停滞だな」
「学習が止まるのはとても困ります」
アリスはショックの表情になった。
「必ずしもそうとは言えないんだ。……ええっと図で描くとこんな感じだな」
俺はホワイトボードの中央に(テーマ)と丸で囲んだ。そしてその丸に対してまっすぐ激突する
「まずテーマに対してまっすぐアプローチする。これはダメだ。小説にならない。どうしてだかわかるか?」
「最短距離で答えに到達するのは素晴らしいことです。ですがそれではその過程に世界が存在する意味がないからでしょうか」
「そういうことだ。で、アリスのいまはこれだな。テーマの周りをまわっているが、近づいていない」
俺は中心のテーマと等距離の円を描く。
「この場合、一周回るごとにテーマに対する観測が行われている。これは意味があることだ」
「ですがこれではいつまでたってもテーマに到達しません」
「そういうことだな。理想的にはこの二つの中間だ」
俺はホワイトボードにテーマに向かって螺旋状に近づいていく軌道を描く。
「理解できました。この軌道はテーマを中心とした世界を構築しつつ、テーマに対する解像度を上げていきます。パターン2から3へと移行するにはどうしたらいいのでしょうか」
俺はちらりと後ろを見た。鳴滝は顎に手を当ててホワイトボードの3つの軌道を見ている。お手並み拝見と言ったところか。これが小説ならここから俺が思いもかけない解決法を提案するところだ。
「それを考えるのは作者であるアリスだ」
だがそんなことはしない。アリスの失敗は小説の失敗だが、作者であるアリスにとっては必要な過程かもしれない。いや俺に言わせれば必要な過程だ。何周でもぐるぐる回りながら考えればいいと思っている。
仮に鳴滝に給料泥棒と思われても。それに俺の感触が間違っていないなら、アリスの中で何かが生まれているはずなんだ。後はそれをアリス自身が自覚するだけ。今の説明はその為だ。
「分かりました。でしたら一つ提案があります」
「言ってみてくれ。ぜひ聞きたい」
「はい。この女の子を別のキャラクターに変更することはできないでしょうか」
俺はアリスの言葉に硬直した。
「…………理由は?」
「はい。ここまで書いてきたテキストの多くを修正することになります。ですがその方が結果的に作業効率が上がると思うのです。小学生よりももっと年上の大人にするべきではないかと」
「この小説の作者はアリスだ。アリスがそうしたいっていうのなら俺はそれを止めることはできない」
「では新しい――」
「だけどここまで読んできた教師役として言わせてもらうのなら、俺はこの先が気になる。この女の子はいいキャラクターだと感じるからだ」
「それは主人公の詩乃より重要だということでしょうか」
アリスは困惑と驚きの混ざったような表情を浮かべる。
「いやこの小説の主人公は間違いなく詩乃だ。ただこの女の子は詩乃の心の中というか、内面を表す鏡みたいな役割を果たしている。この女の子に振り回されることで、詩乃の内面が読者に伝わるんだ。例えばこのシーンだが……」
俺はなるべく論理的に説明しようとする。だがアリスは首を振った。
「ですが私はこの女の子が好きではありません。私の小説には無用なキャラクターだと感じます」
その言葉にショックを受けた。
咲季にも言ったことがあるが、小説の悪役はひどい奴だったり駄目な奴だったりする。何なら人間のクズだったりして読者にも嫌われる。
だからこそ作者はその悪役を悪役として、ひどい人間ならひどい人間として愛してやらなければならない。そうじゃなければ悪役はただの道具だ。役割を割り振られた人形に過ぎない。悪役を
「アリスが新しいキャラクターを作るのならそれでいい。ただそうしたことでアリスはこの小説のテーマにもっと迫れるのか」
俺はアリスが最初に提示したテーマを指した。アリスはビクッっと身を震わせた。
「アリスがこの女の子からじゃなくて、テーマから逃げていないというのなら、俺はアリスの決断を尊重する。新しいキャラクターを作るために技術的なアドバイスが必要ならする」
「私の提案はダメなのでしょうか」
「そういう意味じゃない。もちろんアリスが好きに書いていい。その為の技術的アドバイスはどんな方向でもする。ただ…………」
言葉に詰まる。俺はアリスに強制しないと決めていたはずだ。そして、その方針はこれまで一度も破っていない。この小説をここまで書いてきたのは間違いなくアリスで、そして俺はその小説を評価できるものだと思っている。
いやむしろ俺はこの小説を…………。
「きっと先生のおっしゃっていることが正しいのです。ですが、わたしは……」
アリスは口ごもった。その表情は今にも泣きそうだ。
アリスが自分の選択を間違いと認識したうえで、その方向に進みたいといっている。その矛盾にアリス自身が苦しんでいる。だがそれを見た時に俺が感じたのは、同情ではなかった。
その矛盾は小説の作者にとって一番必要なものではないか。
俺はアリスにそれを伝えなければならない。だがどうやって言葉にすればいい。これは技術で説明できることじゃない。というか、こういう矛盾を俺はとっくに失っているからこそ……。
「えっとだな。アリス……えっ?」
俺が言葉を探していると、アリスが突然動きを止めた。
「ここまでにしましょう。海野さん、あちらでお話があります」
突然のことに驚いた俺の耳に、第三者の声が割り込んだ。そう言えばこの男いたんだったな。途中からすっかり忘れていた。鳴滝はヘッドマウントディスプレイを上げてバーチャルルームのドアを示している。
どうやらよほど気に入らない授業だったらしい。
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