第7話 悪魔の所業

「先輩は知らないかもしれませんけど編集者って“鬼”なんですよ」

「…………」


 喧騒と煙の溢れる店内。後輩作家がテーブルにビールを置いてから声を潜めて俺に言った。まるで世界の真実を知ったかのような表情に対し、俺は沈黙を守った。



 炭火が煽る油の香りはどこの焼鳥屋でも同じで、それは確かに人間の根源的な欲望を刺激する力を持つ。だがその香りの中に品が感じられるのがこの店の稀有な魅力だ。こういう目に見えない品質を感じることは小説の描写のためには重要な体験だ。


 目の前にいる売れっ子作家に言っても仕方がないけどな。こいつの溶岩焼きの描写を一足先に味わった身としては、釈迦に説法を自覚せざるを得ない。


 咲季の愚痴が論外だって事実はそれで変わらないけど。


 まず第一に編集者としては善人の類の綾野氏を鬼にしたのは咲季であろう。そして咲季が鬼といった編集者は今頃その咲季の遅らせた原稿を本にするために奴隷のごとく働いているのではないか。


 大体、大抵の作家は編集者が鬼だということは知っている。まあ編集者の方も作家を悪魔か何かと思っているかもしれないが。


「なんにしても初稿が上がったんだろ。お疲れ様」

「ホント疲れました。まあ、これで完結ですしちょっと肩の荷は下りましたけど」

「…………何言ってるんだ?」

「あっ、でも最後は上下巻に分けるんで、まだ半分ですけどね」


 えっ、あれか? いくら何でもやりすぎたから打ち切りを宣告された、いやないな。なんでわがままに耐えてやっと育った金の生る木を切り倒すんだよ。


「新しいことに挑戦しようかなって。私の見えてる世界と朝子が微妙ーにずれるっていうか」


 咲季は食べ終えたモモ串を皿に平行に置いていった。描写としてなら串をくるくる回す方が様になるが、それじゃあ咲季の魅力が表現できない。


 じゃなくて、確かにあの時見せられた溶岩焼きの描写、あの作風に合わせた新作というのは考えられるか。でも出版社としてはそんなギャンブルよりも続きが欲しいんじゃないか……。


 そこまで考えて俺は戦慄の事実に気が付いた。


 こいつさっき誰を鬼だって言ってた? 編集者にとってはこいつこそ悪鬼羅刹に見えてないか?


「ちなみに先輩の方はどうなんです」

「まあ順調だぞ。この調子ならアリスは本当に面白い小説を書くかも知れない」


 前回の授業を思い出す。俺から見ても四話、あるいは五話まではよくできている。問題があるとしたら良く出来すぎているところか。


「これからは順調なだけじゃだめかもしれないけどな」

「むう、やっぱりピコピコには甘い」

「そんなことはないぞ。アリスがなんと言おうと答えは教えない。スパルタ教師だ」

「だから…………それが甘いんですよ」


 咲季はふてくされた表情で、ビールをすするように飲む。お前に対する編集者の対応ほどじゃねえよ。


「この調子だとアリスに小説を教える仕事はいつまで続くかな」


 始めたのが春で、もう十二月だから八か月近いか。想像以上に長い仕事になった。すぐに終わると思ってたのにわからないものだ。


「…………そのあとはどうするんです?」

「どうしたものかなあ。こんな実入りのいい仕事はまずないしな」

「ピコピコのことじゃなくてですね。私が聞きたいのは…………。大将ビール」


 咲季は運ばれてきたジョッキをグイっとあおった。そして珍しくドンと音を立ててテーブルに置く。


「もう小説書かないんですか?」

「……そりゃテーマさえ浮かべばいくらでも書くけどな」


 喧噪の店内に作られた空白の空間、それが空気を重くする。


「いやテーマを思いついても、そもそも出してくれる出版社がないか」


 我ながら情けない言い訳だ。だが、それを聞いた咲季はごそごそとバッグを探ると、一枚の封筒を出した。


「今度出版社のパーティーで表彰されるらしいです」

「へえ、そりゃよかったな」

「反応が薄いです。もっと驚いてくださいよ」

「いや、そのうちそういうこともあるだろうと思ってたし。例えば黒須さんも驚かなかっただろ」

「…………文美はそういうやつなんで。まあいいです。それで綾野さんが先輩にもお世話になったからって」


 咲季が封筒から出したのは、俺の名前の書かれた招待状だ。会場は都心のホテルか。人気作家か将来を期待される作家に渡されるプラチナチケットだな。綾野氏には余計な気を使わせたらしい。


 このチケットを用意したのが咲季がお品書きを閉じるといった前なのか後なのかが非常に気になるところだ。


「俺が行っても仕方ないだろう」

「ほら、将棋とかでも弟子がタイトル取ったら、師匠が解説役に呼ばれるみたいな」

「自称師匠はちょっと勘弁してくれ」


 若き売れっ子作家にくっついてきた売れない中年作家。自称師匠というパワーワードに戦慄を覚える。自称弟子の方がまだかわいげがある。


「…………っていうかやけに踏み込むじゃないか」

「そりゃ、この前は踏み込まれましたから」


 咲季は俺をまっすぐ見た。あれは綾野氏から頼まれた仕事だ、というのをはばかられるくらいの強い目だ。俺は思わず目をそらした。


「ま、その時までに売り込みたい企画が思いついたらな」


 招待状をカバンの内ポケットにしまった。我ながら情けない言い訳ばかりだな。




 咲季をタクシーに押し込んだ後、俺は地下鉄に向かった。冬の夜風が頭に巻き付き締め上げてくる。沈黙を肴に飲む酒ほどまずいものはない。


 テーマが思いつかない理由なんて本当は分かっている。アリスや咲季に偉そうに教えたことだ。小説は自分の世界だ。自分の中にある自分だけの世界、つまりそれ自体は誰もが持っている。それを小説として表現する技術はいくらでもあって学習可能なもの。


『詩乃の行動を描くんじゃなくて、行動で詩乃を描くんだ』

『ストーリーじゃなくてテーマは始まっているのか?』


 小説を書いたことがないアリスになら多少は役に立つかもしれないが、俺の教えている技術なんて本当に大したものではないのだ。それは膨大なサンプルが証明している。


 プロ作家のほとんどは初期に書いた代表作を越えられない。いやこれは小説に限らない、多くの芸術家の代表作は初期のものだ。芸術に限らない、数学のフィールズ賞が原則四十歳以下の数学者のみを対象にしているのも、これを象徴している。


 むしろ小説家は年齢を重ねてもデビュー可能な数少ない分野といっていい。その小説でも代表作は圧倒的に初期に生まれる。


 技術や知識が増えるだけ良いものが出来るのならこんなことは起こらない。スポーツ選手と違って肉体的な衰えは致命傷ではないのだから。


 理由は簡単だ。自分の世界は一つしかないからだ。本当に新しい小説というのは一人一つだけ。それが技術的にうまく表現でき、世の中の求めに合致した結果、名作や傑作と呼ばれるものが生まれる。そこまでいかなくても、その作家の代表作になる。


 致命的なのは自分の世界を表現しつづけると自分自身がそれに飽きることだ。最初は未知の世界の探検者でも、次は既知の世界の案内者になってしまう。ノンフィクションがフィクションになるようなものだ。


 鉱脈を掘りつくした鉱山に最新の採掘設備を導入しても何も生まれない。


 …………もし例外があるとしたら、それは自分の世界がひっくり返るような経験をしたときだろう。


 それこそAIが人類を凌駕して、万物の霊長から叩き落すくらいのことが起これば俺も新しい小説が思い浮かぶかもしれない。


 AIの教師役として不適切な例えに首を振る。


 そもそもアリスが本格的にテーマに向き合うのはこれからだ。それに必要な技術と知識をアドバイスする。それが今の俺の仕事だ。


 テーマを失った小説家おれでも、アリスが自身のテーマを表現する技術と知識を教えることはできる。少なくともこの“仕事”に関しては順調だ。作家であった時よりも高収入と来ている。


 何が上手くいっていて、何が上手くいってないんだか、まあ人生なんて往々にしてそういうものだろう。

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