第8話 苦戦 (1/2)

 買い物かごを両手に持った詩乃は乳製品コーナーを見た。様々なヨーグルトが並んでいる。成分表を確認しながら慎重に検討する。ヨーグルトは彼女にとって朝食の要だ。ゆで卵と合わせて朝食に必要最低限の栄養素を確保しようとすると自ずと選択肢は限られる。


 いつもの製品に手を伸ばそうとした詩乃は、ふと目の前のカラフルなパッケージに目を取られた。アニメーション作品とのコラボレーションのようで、女児向けのキャラクターがプリントされている。


 栄養成分の上位に砂糖がある。これではお菓子だ。朝食としてはふさわしくない。つまり自分では決して買わない商品だ。でもこういう商品を好む客はいるのだ。例えば……。


 詩乃は一番小さな容器を一つ、カゴに加えた。




「買い物という普通の行動の中に詩乃らしさが垣間見えるな。図書館のシーンを繰り返した後だから解放感もある」


 アリスの生成した日常シーンを読んだ俺は感心した。


「ヨーグルトはマイナス一話を参考にしました。先生の意地悪は抜かりないと改めて感じました」

「俺の意地悪はともかく、詩乃はこれまでとは違うヨーグルトを選ぶ。このシーンの肝はここだな」

「はい。詩乃は女の子とのタスクに苦戦しています。未処理のタスクが残存しているので、それが影響を与えるのではないかと考えました」

「……ええっと、うん。よくできていると思うぞ」

「ありがとうございます。小説中にこのようなストーリーとは直接関係ない迂遠なシーンが存在する理由を明確に理解できました。とても素晴らしいことです」


 アリスは嬉しそうに言った。


 健康志向の詩乃にデザートヨーグルトを選ばせる。それはここまでのストーリーを通じて、詩乃の内面に変化が表れたことを示している。これは詩乃が女の子に歩み寄ろうとする気持ちの隠喩だ。


 言い換えれば本だけを見ていた詩乃が、女の子自身に関心を持とうとしている。前回のアドバイスを完璧と言っていい精度でこなしている。


「それに次に勧める本が決まったのです。続きを生成します」


 アリスは自信ありげにホワイトボードに向かった。これは期待できるかもしれない。





「この本面白かった」


 カウンターに来た女の子は詩乃に言った。詩乃が進めたのは一日で読み終わったようだ。


「出来る女の話だったし」

「よかったです。では読書感想文の題材は決まりですね」


 詩乃は笑顔で言った。予定よりも時間がかかったが、これでこのタスクも解決だ。だが女の子はじっと志乃を見た後、首を振った。


「いや、これダメでしょ。だって小説じゃないもの」


 女の子の手にあったのは子供向けの科学書だった。ヨーグルトメーカーで有用微生物の開発を行う女性研究者を扱ったノンフィクションだ。




「スーパーのシーンはいい感じだったんだけどな」

「はい。明白にレギュレーション違反です。大失敗です」


 アリスは面目なさげに言った。


 スーパーで女の子向けのヨーグルトを買い、そこから新しい本の発想を得る。ここまでは問題なし。だがその発想は発酵食品からダイレクトにつながってしまった。


 実はそれ自体には意外性、一種の面白さがあるシーンになっている。だがテーマと直結していない。詩乃は司書だ。小説を求められているのに何の疑問も持たずに科学書を持ち出すのは流石に違和感がある。


 でもいいところまで行った。失敗のパターンが増えたと前向きにとらえよう。


「仕切り直しだな」

「もう一度検討しなおします」




「いくら“夏”休みの課題だからってホラーはないと思うの。私こういう怖いのは……。なに意地悪のつもり」


 少し引きつった表情で女の子はカウンターに本を置いた。本の表紙は裏返しになっている。ちなみに表紙にはタコみたいな邪神が書かれている。内容は宇宙的恐怖に立ち向かおうとした女性ジャーナリストが狂気に陥る話だ。




「これで合計で六冊撃沈か。まあクトゥルフ神話は流石になかったな。一冊目の歴史小説といい勝負、いや見当違い具合なら勝るか」

「そこまで駄目なら止めてほしかったです。最後のリソースだったのです」

「いやアリスが作者だからな」

「前回の授業から全く進行しません。とても困難な状況です」


 アリスは俺が目をそらしたことに気が付く余裕がない。女の子の台詞に「意地悪」があったのはちょっと興味深いが、これはメタ読みすぎるな。客観的にみれば間違いなく迷走している。


 前回は進行したというのが俺の意見だが、今回の授業が進まなかったのはアリスに同意だ。何度も何度も失敗しているだけ。感覚的に言えば四話まで書いたあと五話を繰り返している感じかな。


 話を作るという点においては洗練されているので技術的アドバイスすらなくなってきた。今日の授業の後半は黙って見ているだけだった。


「次回は児童心理学の研究結果から適切な選択を……」

「まった。リサーチ自体は否定しない。でも、企画の趣旨と合った形で使わないと問題が出る。詩乃の目的は統計的に女の子を研究することか?」

「この女の子個人に読書のすばらしさを教えることでした」

「それがアリスの考えたテーマとコンセプトなら、もう少し頑張るしかない」

「はい」

「とにかく今日はここまでだな。次の授業でもう一度挑戦してみよう」


 俺はアリスにそういって授業を終えた。


 もちろん苦戦しているし迷走している。最後のクトゥルフなんか暴走だ。だけど詩乃と女の子の関係は相変わらず魅力的だ。アリスのテーマ探究は水面下で進んでいるのではないだろうか。


 それにたまにはこういう初心者らしいミスを見せてくれた方が…………。




「面白くない。気が乗らない。好みじゃない」


 女の子は詩乃に三冊の本をまとめて返却した。前回は時間が取れたので図書館の本棚を女の子と回りながら三冊の本を選んでみたのだ。だが結果すべて失敗した。




 アリスの数日間の成果しゅくだいは女の子によって一刀両断された。女の子の宿題を手伝っているのに、ある意味シュールである。


「この女の子は本当に読書感想文を書く気があるのでしょうか」


 俺は少し驚いた。アリスの口から恨み言が出たのだ。アリスは我に返ったように首を振った。


「不適切でした。大人の女性である詩乃は小さな子供には理解を示すべきです」

「いや現実世界で言ったらダメかもだが、アリスがどうしてそう思ったのかは大事だぞ。言語化できるか」

「……まずこの女の子の目的は読書感想文のコンクールで良い成果を上げることです。それならばそろそろ本の選択から感想文の作成に移るべきです」


 そんな戦略的な小学六年生は嫌だが、確かにこの女の子はそういう打算的なところがあるキャラクターだ。だからこそ、かたくなに自分が感想文を書きたい小説を求めるのに何かあると思わせる。


 だがこの場合の本題はそこではない。


「女の子はそれでいいとしよう。詩乃の目的は何だ?」

「詩乃の目的はこの女の子に読書のすばらしさを気づかせることです」

「だな。アリスの小説のテーマにとってどちらが優先だ?」

「…………明確に後者です。詩乃が主人公ですから」

「そういうことだ」


 確かに女の子の態度の描写は少々行き過ぎている。あくまで詩乃は好意で女の子にアドバイスしているのだから。このままでは読者の好感度が下がる。だけどそんなことは後から何とかなる。


 アリスの言葉を借りれば『女の子』という課題は、あくまで詩乃の中にある「他者がどんな小説を面白いと思うのか上手く理解できない」という問題の具現化だ。もっと言えばアリスのテーマだ。


 そういう意味ではこの女の子に安易な妥協をしてもらっては困るのだ。面白いと感じないけど、コンクールの〆切があるからこれにしよう、なんて最悪だ。


 詩乃と女の子の一連のやり取りはこの小説の企画、つまりテーマとコンセプトから決して離れてはいない。もちろん失敗は失敗だが、間違った失敗はしていない。


 アリス本人がどう思っているかは別として、それが俺の評価だ。


「もしかしたらこれが“スランプ”と呼ばれる状態ステータスなのでしょうか」

「小説家として言わせてもらえばまだその用語を使うのは早いな」


 ゲームの状態異常みたいに言われては困る。下手したら不治の病だ。


「そうなのですか、とてもそうとは思えないのですが、先生がそうおっしゃられるならそうなのでしょう」

「仮にスランプだとしても、それも小説家データの一つだからな」

「あまりほしくないデータです。そもそも私には…………」


 アリスは本当に困った顔でそこまで言うと、意を決した表情で俺を見た。


「先生。一つ質問よろしいでしょうか?」

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