第4話 本当の第一話
来館者数、貸出件数、延滞率……。
図書管理システムの出力が時系列順に整理され、利用者動向というタイトルでグラフ化された。公共施設である図書館は営利企業とは異なる基準で判断されるが、実績をもとに予算が決まるという事実に変わりはない。
詩乃はノートパソコンから顔を上げて壁の時計を確認した。
11:42
午前中のタスクは順調にクリアできた。午後カウンター当番に出るまで、昼休みも含めて一時間と三分の余裕が生まれた。
詩乃は自分の鞄から一冊の本を取り出す。ハードカバーの表紙には、冬の荒野を背景に黄色い帽子が描かれていた。『冬の麦わら帽子』は曲木賞を受賞した小説で。若い女性を中心に支持者が多い。本には詩乃が図書館への通勤電車の中で張ったいくつもの付箋が挟まっている。
赤い付箋のページを開いて書見台に置き、机の引き出しから円形のカードを取り出した。愛用のボールペンをノックして、開いた本のページから一文を引用符と共に書き写す。
128ページにある少女が窓から冬空を見ているその文章は、この小説の一番美しい描写の一つだと詩乃が判断したものだ。
引用した描写の下に、詩乃が考えた紹介文を二行半で記す。なるべく簡潔に、短く、要点を抑える。以前のように虫眼鏡が必要な小さな文字にはしない。
出来上がったのは引用符含めて百五十文字ちょうど、短文SNSにも投稿できる最適の長さだ。
図書館の備品であるブックスタンドに『冬の麦わら帽子』を置き、作ったばかりのポップをスタンドに差し込む。表紙を背景に文字通りポップアップされた紹介文。出来栄えを確認するために立ち上がって距離を取って見る。
来週入荷するこの小説がカウンター前に展示される姿を想像して、詩乃は心の中で頷いた。ちなみに今スタンドの上にある本は私物である。図書館の蔵書に付箋は貼れない。
今週から夏休みが始まって学生の来館者が増えている。若い人たちに小説のすばらしさをアピールする絶好の時期だ。図書館司書の業務の大部分を占める事務や貸し出しの合間を縫って、詩乃が自主的にポップ作りを行うのはその為だった。
でも、もしもまた効果がなかったら……。
詩乃は立ったままノートパソコンを操作した。
有意差なし。その客観的で冷徹な数字……。
「……さん」
どうして自分のポップに効果がないのか。もしかしたらもう少し文章を柔らかくすべきなのだろうか。さっきまで自信を持っていたポップの紹介文が、途端に頼りなく見える。
「宮里さん。ねえ、みやさとしのさん」
「……えっ。あっはい。すみません」
気が付くと年配の女性司書が隣にいた。我に返って謝る詩乃に先輩司書は手を振って笑う。
「いいのよ。宮里さんみたいなコンピュータが得意な若手が入ってくれて、私たちも助かっているしね。それで用件なんだけどね。……実は今宮里さんに聞きたいことがあるって来館者が……」
同僚は顔をひねった。カウンターの前に小さな女の子が立っているのが見えた。少女の手には一冊の本があった。
それは詩乃が夏休み前に急いで仕上げたポップの本だった。
(うそだろ、おい)
二回目の授業。アリスの提出した新しい第一話を、あと数行で終わりの所まで読んだ俺は唸った。
「どうでしょうか」
「…………ああ、まず舞台は図書館からにしたんだな」
緊張の表情でこちらを見るアリスに、我に返った俺は答えた。
「はい。この小説の世界に読者を招待するなら図書館を最初の舞台とすべきと考えました。司書という詩乃の属性が読者に自然に伝わりますし、詩乃の特徴的な行動であるポップ作りに焦点を当てることが出来るからです」
「そうだな、ちゃんと行動で詩乃が描かれている」
図書館司書というあまりなじみのない職業を、あえて裏方である事務室の中から描く。情報が一つ一つ過不足ない密度と順番で並ぶわかりやすい文章力は当たり前のように健在だ。
最初の図書館システムの下りが少しうるさいかと思ったが、後半での詩乃の抱える問題にしっかり結びついている。
「ポップの描写が丁寧なのもいい。詩乃が来館者に読書を楽しんでもらうために頑張る気持ちが描かれているし」
「はい。そこは重点を置きました」
アリスは自分の横にある立体アクリルフィギュアを見た。ケースの下の回転台がゆっくりと回る。どうやらネットワークを通じてアリスが操作できるようになっているらしい。
「なるほど。平面の上に平面が重なって立体感が出るのが、まさにポップの構造だな」
「そうなのです。この資料はやはり素晴らしいものです」
アリスはうれしそうに笑う。それは過大評価に違いない。優秀すぎる生徒だ。俺が指摘した技術的問題がほとんど解消している。
っと、感心している場合じゃないな。肝心の最後の一段がまだ残っている。
「この本。面白くありませんでした」
小学校高学年くらいにみえる女の子は、カウンターに出た詩乃に本を突き出していった。その本は全国読書感想文の課題図書で、先週詩乃がポップと一緒においていたものだ。
第一話は期待通り、きれいに引けた。
「女の子の登場まで一気に書いたことでテーマが起きている。ポップ作りで問題を抱えている詩乃のもとに、そのポップに文句を言う女の子が来る。うん、構図としては完璧だな」
最大の問題もクリア。人間の初心者がやるような典型的な失敗からその克服までたった三日か。
「よかったです。ですが問題はないでしょうか? この女の子の態度は小学生が大人に対してとるには失礼なものです」
「一般的に言えばそうだ。でもアリスにはそうした理由があるんだろう」
「はい。この女の子は読書をしなければならない現状に不満を持っています。つまり小説を勧めてくる詩乃はこの女の子にとって敵といえます。この女の子は序盤で解決すべき問題ですから、なるべくシンプルな対立関係として表現するべきだと考えました」
「…………そうだな。うん。この先詩乃がこの女の子、アリスの言い方を借りるとこの問題をどう解決するのか、興味をそそられる。読書感想文なら課題図書が決まっているという先入観が、小さな謎として次のページをめくらせるのもいい工夫だ」
『敵』とか『解決すべき問題』とか剣呑な言葉に違和感を感じる。だが、抽象的な構造としてとらえれば間違っていない。それで女の子が非人間的だったら問題かもしれないが、むしろ生き生きとしているように感じる。真面目で礼儀正しい
ただし、俺はアリスの説明の後半には素直に頷けない。この二人の対立は長引いた方が面白いと思っている。むしろこの小説は最後までこの二人の……。
っとこれは言っては駄目だな。アリスがあくまで女の子を序盤の障害ととらえるならそれでいい。そのつもりだったのにっていうことになったらベストだ。
例えば真理亜の時のように。
俺はアリスが知ったら「先生は意地悪です」と言われそうな思惑を心にしまった。そして改めて優秀すぎる生徒の表情を確認する。
どこか楽しそうで、同時に何かにおびえるようなアリスの表情。
不安と期待、それは創作に足を踏み入れた者を逃げられなくする甘美な麻薬だ。女性作家が小説を書くのをDV男と付き合うことに例えたのを聞いたことがある。その女性作家の過去に何があったのかは怖いが、男の俺にも理解できるくらい生々しい例えだ。
特にやさしさと虐待の割合なんかが……ってこれこそ無粋な感想だな。
「とにかく第一話は出来たな」
「ありがとうございます。次は全体の構成です。これが決まれば安心して続きを生成できます」
「ああ、しっかりスタートが切れたから安心して構成を…………」
「教えられる」と言おうとした。だがその瞬間、俺はどこかに引っかかりを感じた。アリスの書いた第一話を改めて読みなおす。なるべく先入観なしに、俺がこの小説の読者だったらどう感じるかを考える。
「アリス。このまま第二話を書かないか」
「どういうことでしょうか? 先生が最初に決められたカリキュラムと違います。私は全体の構成を決めないまま進むことは巨大なリスクだと感じます」
アリスは不安な顔になった。
「アリスはこの女の子の話が全体のどれくらいと見積もっている? あくまで現時点でのイメージでいい」
「…………全体の20から25パーセントです。二万五千字から三万字程度でしょうか。あくまで一般的な構成と考えればですが」
「つまり三幕構成でいう第一幕、起承転結の起だな。じゃあ、その第一幕自体が一つの物語だと考えてみてくれ」
「第一幕は全体の中の導入という役割を持った物語の一部分ではないのでしょうか」
質問にきちんと答えながら、アリスの表情は困惑の度を高めていく。
「どう説明したものかな……。そうだ、前に本格ミステリ紹介シリーズをやっていたよな。その中に導入として探偵が小さな事件を解決する“構成”がなかったか?」
「………………そのような小説は私が紹介した中に二作存在します」
「その小さな事件は全体の中の“導入”の役割を果たしつつ、一つの独立した物語でもあった。違うか?」
アリスははっとした顔になった。
「確かにそれは私のイメージする女の子の役割と一致します。先生の方針転換の理由を理解できました。フラクタル的構造と考えると、この小さな物語を理解することが、より大きな全体の理解に繋がるということです。…………困りました、とても合理的です」
「もちろんアリスが先に全体構成を決めたいなら俺はその技術を教える。別に間違った方法じゃないからな」
「…………最初に全体の構成を定義した方がリスクは小さいと感じます。ですが、私は先生の新しい方針に従いたいと思います」
しばらく迷った後、アリスはそういった。
「くどいようだが。アリスが決めていいんだぞ」
「はい。こういう場合は先生の方針転換を受け入れる方がメリットが大きいというのが、私のこれまでの経験から導き出される決断です」
「…………わかった。じゃあ第二話を書いてみてくれ。これが次の授業までの宿題だ」
俺はそう言って授業を終えた。
バーチャルルームを出た俺はトイレで手を洗った。最後のは干渉しすぎだったかもしれない。
人間の小説家も先のことが決まっていない状態で書くのは不安だ。アリスの性格ならなおさらだろう。
だがアリスの小説の真価を引き出すためには、このタイミングで安心させない方がいい。それは小説教師としての俺の正直な判断だったのも確かだ。
大丈夫だ、技術的には嘘は一切口にしてないし、内容には一切口を出していない。アリスが第一話で始めた小さな物語がそのまま成長してくれることを期待しているというだけ。
俺は手のひらの水滴を払うと、メタグラフのオフィスを出た。
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