第3話 マイナス一話 (2/2)
「今の話、テーマは始まっているか?」
アリスの改善された第一話に、俺はさらに踏み込んで問う。優秀でまじめ、しかも素直な生徒に対してここまで厳しい要求をするのは酷かもしれないが、俺は小説を教えなければいけない。そしてテーマは教えられない。
『起承転結』は小説を書こうとする者でなくてもほぼ全員知っている言葉だ。ほぼと言ったのは、咲季みたいな例外がいるからだ。その例外の方が面白い小説を書くというのが救えないのだが。
それはともかく、初心者が書いてもちゃんとストーリーは起きる。つまり物語は始まる。だが往々にしてテーマが寝たままであることがある。寝ぼけ眼をこすってるくらいならかわいいもので、夢遊病者のようにただ外に歩き出すという深刻な状況は珍しくない。
テーマではなくトリックの話になるが、ミステリ小説で最初に殺人事件が起こるのがわかりやすい。あれは事件の開始ではなく
一見同じに見えるが、これを意識するかしないかで冒頭に転がる死体の重みが全く違ってくる。
まあそれが誰も思いついたことがないような奇抜でかつ面白いトリックなら小細工の範囲になるんだけどな。
「この第一話には、これがどんなテーマの小説なのかが書かれていない。書かれているのは詩乃という主人公のことだけだ」
「はい。この小説の企画は詩乃が中心です。詩乃をしっかり紹介することはテーマとつながっていると判断します。ここで描かれた詩乃が図書館の来館者に小説を勧める物語ですから」
「その通りだ。でもそれを知っているのは
「読者にテーマを語り掛けていない……ですか」
「アリスは一話を一つのことに集中した方がわかりやすく明確になると思ったんだろう。だけど、それは目的をもって記述され、目的をもって読まれる文章の流儀だ。アリスのチャンネルの台本のような。でも小説はテーマを中心とした”世界”を描かなければいけない、読者にとっては第一話は世界の入口なんだ」
アリスは目をぱちくりさせ、首を傾げる。綺麗な瞳の虹彩がくるくると回転する。必死に考えている。
「今のアリスの小説への理解力ならわかるんじゃないかな。これまでアリスが読んできた小説の第一話には、小説の企画と照らし合わせて考えたら何が書いてあるのか」
俺の言葉に、アリスははっとした顔になった。そして自分がいま書いた文章を見直す。
「……確かにその通りかもしれません。私の書いた文章は客観的に読めばテーマについて書いていません」
アリスは肩を落とした。「どうしてこんな失敗をしたのでしょうか」というか細い声。自分に失望した生徒。
でもそれは違う。単純に第一話は本当に難しいんだ。プロの小説は第一話に本当に神経を張り巡らせている。
これを体感するのは簡単で、気に入った小説の第一話、プロローグではなく主人公が最初に登場するシーンがいい、を数ページだけでも自分の手で紙に筆写してみればわかる。
ただ書き写すだけじゃない。どんな情報が、どんな順番で、どう表現されていて、それは小説全体にとってどういう意味を持っているか。それを読者が興味を失う前に自然にその脳に注ぎ込むためにどんな情報は省いているのか。
当たり前につづられている平易にみえる文章がどれだけ取捨選択された情報と精巧なバランスを紙背に持っているか。それが途端に目の前に見えてくる。
ちなみにこれは小説指南書の類にはほぼ書いていない。だから小説指南書を読んだ初心者は、ストーリーを起こすが、テーマを寝かしたままになる。
「とはいえちょっと安心したけどな」
「致命的な失敗を二つも犯してしまいました。それもまだ私が一度に認識可能なテキスト量の範囲であるにもかかわらずです。安心できる要素はどこにもありません」
アリスは小さく首を振る。俺はそうじゃないと大きく首を振った。
「もしもアリスが既存の小説のパターンをなぞったらこの失敗はなかったはずだ。パターンだけのそれっぽい文章を書かれる方がずっと致命的だ。そうだな、ゼロとかマイナスとかいう言葉は良くなかった。アリスが自分の主人公を自分で描こうとした、アリスにとっては第一話だった。でも、読者にとってはそうじゃなかっただけだ」
「…………ではどうすれば」
「今言ったポイントに注意するだけだ。主人公である詩乃しかやらない行動で詩乃を描く、そしてストーリーだけでなくテーマを始めること。それを読者との情報量のギャップを前提に実現する。そういう第一話を改めて考えるんだ」
「ポイント……技術的要点……情報の取捨選択……少しずつ理解できてきました」
アリスの瞳に徐々に光が戻っていく。だがその頷きが突然止まった。口を閉じて俺をじっと見る。
「ど、どうした急に黙って」
「はい。恐るべき推論が浮かんだのです」
「推論?」
「先生は私が失敗することを承知でこの話を書かせたのではないかという推論です」
思わず目をそらした。だがアリスの追求の視線は離れない。俺はあきらめた。
「実はアリスが最初に詩乃の朝の行動を書くといった時に、こうなるとは思った」
「つまり先生は私が失敗するのを手ぐすね引いて待っていたのですね。とても巧妙な意地悪です」
アリスは例によって特殊な用法をした。いくら何でもそこまで悪辣なことは考えていないんだが。内心ほくそ笑んだくらいだ。
「サンプル話っていうのはこういう問題を浮き彫りにするためにも有効なんだ。最初に言っただろ、アリスが何を教えるのかを教えるんだって。これはちょっと変わった質問の仕方、ということでどうだ?」
「流石先生です。理由付けが論理的で完璧です」
「……ええっとちょっとやりすぎたような、そんな気もしなくはないが」
俺は乾いた笑いを浮かべた。アリスはそんな俺に微笑んだ。
「いえ、これはまさしく作者の内にあるデータです。私が小説をどれだけ読んでも獲得できなかったものです。ありがとうございます先生」
さっきまでの不信の瞳はすっかり消え、とても満足そうに言うアリス。しっかり理解しているじゃないか。こっちが意地悪をされた気分だ。
「ですが困りました。今教えて頂いたことを実行するには多くのリソースが必要です。四千字のテキスト量から見積もったリソースを完全にオーバーします」
なるほど、確かに今日の授業は詰め込みすぎだったな。小説なら上下話に分けなければいけない密度だったかもしれない。
「少しだけ早いけど今日の授業はここまでにしよう。第一話は次までの宿題でどうだ。あくまでアリスが書ける範囲でもう一度挑戦する形でいい」
「分かりました。はい、残念ながら妥当な結論と言わざるを得ません」
アリスは残念そうな、でも少しほっとしたような表情で答えた。そして姿勢を正すと、きれいに一礼した。
「先生はいつも私に多くを教えてくれます。先生のおかげで私は達成不可能だと判断した目標に挑戦することが出来るのです」
「流石に大げさだ。次の意地悪を考えるのが大変になるだろ」
俺は冗談を言ってバーチャルルームを出た。
地下鉄は空いていたが、向かいの席にはくたびれた中年男が座っている。男が手に持っているカップ酒がこぼれないか少し不安だ。俺が考えても仕方がないことだが。
(先生のおかげで達成不可能な問題に挑戦できる、か。教師役としては最高の褒め言葉だろうな)
今日の授業を振り返る。実際、この地下鉄の運行くらい順調だ。アリスに何を書くのかを具体的に一切指示せず、『一話』を書くために必要な技術的なポイントをうまく伝えることが出来たといえる。
もちろんアリスの文章作成能力が高いおかげだというのはある。『何をどう表現するか』という基本中の基本が本能レベルで身についている。小説というある意味一番難しい文章を書かせてみたからこそ分かるその能力は正直舌を巻く。
もともとの文章が情報的に整理されていたからこそ、その情報に意味があるのかどうかだけに集中して指導できたのだ。
…………咲季みたいな例外もいるが。あいつの文章は情報の順番が適当でも、流れが途中でブチ切れても魅力が伝わってくる。いや、咲季の場合は頭の中に明確なイメージがあるからこそだろうけど。
まあ、ああいう真似できないものは教えることはできない。というか、教えては駄目だ。それこそ咲季の上っ面をなぞった小説家モドキが出来上がるだけ。
とはいえ、今日教えたことなんてただの技術に過ぎない。第一話の技術的な難しさは突出しているが、それでも技術的な難しさに過ぎないんだ。
問題はテーマのもつ絶対的な価値だ。技術はその価値の何パーセントを引き出せるかを決めるに過ぎない。10の価値しか持たないテーマを技術で百パーセント引き出しても10の価値の小説が出来上がるだけ。1000の価値を持つテーマを技術不足で10パーセントしか引き出せなくても100の価値の小説になる。
実際、アリスと一緒に書いたミステリなんて、最後の最後でひっくり返って、それだけが価値を持った。改めて小説というものは恐ろしい。
だが同時にテーマがどれだけの潜在的な価値を持つかは、実際に小説として表現してみないとわからない。読書好きの図書館司書がどうやって『小説の面白さ』を探求するのか。おそらくアリス自身まだ知らない。
もちろん小説の教師役に教えることはできないし、教えてはいけない。そういう意味でも今日の授業は悪くない。
そこまで考えた時、地下鉄のドアが開き冷気が入ってきた。それが頭を冷やした。
(テーマは起きたのか? 我ながら偉そうなことを言ったもんだ……)
テーマを見いだせない作家にとって文章力や技術は罠だ。それを知っているだけでなんとなく読めるものが書けてしまう。作者自身も知らないうちに目的地のない旅に連れ出してしまう。
俺にとって
俺はただアリスが自分のテーマを引き出すための技術的なアドバイスをすればいい。
ドアが閉まり暖気が戻ってきた。
ふと向かいの席を見た。向かいの酔客はいなくなっていた。空っぽの酒のカップだけが座席に残っていた。
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