第3話 マイナス一話 (1/2)

 6:50


 いつもの時間にベッドで目覚めた詩乃は、パジャマのまま洗面所に向かった。

 鏡を見る。肩まで伸ばした黒髪の24歳の女性が、少し眠そうな目で立っている。

 体重計に乗った。メモリは56.2Kgを指した。詩乃の身長は160cmであり、BMIは21.95と表示された。少しやせ気味とはいえ正常範囲内だ。強いて言えば先日と比べて0.2kg増加している。

 詩乃は昨日の食事を思い出した。仕事で忙しかったために夕食を少し食べ過ぎてしまったかもしれない。

 今朝の献立を考えながら冷蔵庫に向かった。


 …………


 サラダとヨーグルト、そして六枚切りのトースト一枚半がテーブルに並んだ。ヨーグルトはギリシャヨーグルトで、たんぱく質が多めで消化にも良い。白いヨーグルトの上に小さじ一杯のイチゴジャムで花を咲かせる。適度な甘さと彩は軽視できない食事の要素だと詩乃は思っている。


 …………


 詩乃はシャワーとメイクを終えると、職場である図書館に向かうためマンションを出た。今日から夏休みで来館者が増える。司書として忙しくもやりがいがある時期が始まるのだ。





 ホワイトボードにアリスの考えた第一話の文章が出力されていた。


「いかがでしょうか」

「文章としては満点だな。読みやすくて内容が頭にすっと入ってくる」

「ありがとうございます」


 アリスが生成した文章は期待通りだった。段落間の情報の量とそのつながりに無理がないので、自然に頭の中に入ってくる。


 普通の文章と小説の文章の大きな違いはキャラクターの存在だ。文章がキャラクターの視点でつづられ、またほかのキャラクターとの相互作用を生む。だからこそ視点の固定は重要で、アリスの場合は小説で最も典型的な三人称視点。


 正直言って小説を一度も書いたことがない人間が書ける文章ではない。一発でこれが出てくるというのがある意味恐ろしい。技術的な欠点があるとしたら、整いすぎていてかえって重点が分かりにくいところだ。


 だけどこれは何とでもなる。問題はむしろ内容だ……。


「でも小説の第一話としては問題が二つある。どちらも深刻だ」

「深刻な問題が二つも。どこの文章でしょうか」


 アリスはいつもの二倍くらい深刻な顔でいった。


「文章の問題じゃない。この『話』が主人公である詩乃を表現していないことが第一の問題だ」

「申し訳ありませんが同意することが難しいご指摘です。この文章は明確に詩乃のことを書いています」


 アリスはそう言うと、文章の中の体重、身長、髪形などを示す単語が太文字になった。


「いや、ここに書かれているのは体重が約55.2kgで身長が160cmの女性だ。この小説の主人公である詩乃じゃない」

「しかし……。いえもう少し具体的にお願いします」

「まず前提として第一話は読者と作者の間の情報ギャップが一番大きいんだ。体重とか朝食の好みとか服とか、具体的な情報をたくさん並べるとかえって伝わらない。女性としては背が高くスマートなくらいで十分だ。ただこれは些細な問題だ。深刻なのは詩乃の行動の方だな」

「人間の若い女性の朝の行動ルーチンを現しているつもりです。私は人間ではありませんので、そこに関しては細心の注意を払ったのです」


 アリスはそう言って口をきゅっと結んだ。自分がどういう意図で、何をしたのかをきちんと認識していて、それを分かりやすく説明する。その能力は素晴らしい。小説に限らず全ての文章の基盤だ。教える側としては実に頼もしい能力だ。


 だがこの場合はだからこそ問題が悪化している。


 この文章のようになんとなく読めてしまう。そこに重要な情報が何もなく、小説として価値がなくてもだ。


「確かにアリスの言う通り、この女性の行動は自然だ。でも言ったように第一話では読者は詩乃を知らないんだ。つまりこれは知らない人間が典型的な女性の朝の行動をしているだけのシーンになってしまう。つまり情報量ゼロだ」

「ゼロ…………。私の文章はゼロ……それは無価値ということです」


 しまった、オブラートに包むつもりがアリスにとって最も伝わりやすい数字を使ってしまった。


「えっとだな。言い換えればアリスは詩乃が何をしたのかを書いた。だけど行為の主体の詩乃のことを読者は知らない。アリスが詩乃の紹介をしたいなら詩乃の行動を描くのではなく『行動で詩乃を描く』必要がある」

「詩乃の行動ではなくて、行動で詩乃を描く…………」


 アリスは食い入るように俺がホワイトボードに書いた文字を見た。


「簡単に言えば詩乃しかやらないことだな。アリスの小説の主人公である詩乃しかやらない行動で、詩乃がどんなキャラクターなのかを描く」

「詩乃しかやらないこと……」


 ちなみにこの文章から強いて取り上げれば詩乃がとてもヨーグルトにこだわっているということだ。この小説の主人公である詩乃にとって重要なことじゃない。少なくとも第一話では駄目。


「再試行します。…………詩乃は朝起きてベットの横に置いていた読みかけの本に手を伸ばします。そして読みふけってしまって遅刻しそうになる。一般的な社会人女性は朝時間に余裕がないものです、そんな中で本に手が伸びることから、詩乃の読書家としての特徴が表現されます」

「課題の答えとしては正解だな。だけど一つ質問だ。アリスは詩乃を本当にそんなキャラクターだと思っているか?」

「…………そうではありません。それは詩乃の行動ではないと思います」


 正解といった時にほっとした顔になったアリスだが、最後に首を振った。そして困惑の表情で俺を見る。


「あの、先生はどうしてわかってしまうのでしょうか」


 そりゃ同じような失敗を山ほどしたからだが。まあ、アリスが聞きたいのはそうではないだろう。


「アリスの書いた詩乃から伝わってくるのは、詩乃が真面目できちんとした性格であることだ。読みかけの小説が気になっても朝の支度を優先する。違うか」

「おっしゃる通りです。私の小説は失敗ばかりです」

「いや、今のはどちらかというと褒めてる」

「⁉ どういうことでしょうか」

「アリスの意図した詩乃のイメージが文章を通じて俺に伝わっているってことだ。アリスなりに自分の詩乃を描こうとした証拠だ。これはこれで大事なことだ。ただ第一話はそれだけじゃダメなんだ。特にこの小説での詩乃はテーマを体現する存在だからな」

「それが詩乃しかやらないこと、行動で詩乃を表現すること、なのでしょうか」

「そういうことだ。詩乃を現す行動を一つだけでいい、考えてみるんだ」

「分かりました。…………詩乃は、朝食を食べて全ての準備を整えた後、本棚に向かいます。……その中で本を一冊選び、鞄に入れると家を出る、というのはどうでしょうか。詩乃は図書館で紹介する本のポップを作っています。この本はその候補なのです」

「図書館に行くまでに読むわけだな。まじめできっちりとした詩乃の性格にも合ってるな。じゃあ第一話第二案をそれで行ってみよう」

「待ってください。先生は先ほど深刻な問題が二つあるとおっしゃいました。もう一つについてまだ教えていただいていません」

「二つ目は後にする。まずは一つ目の問題を解決しよう」


 俺はアリスに促した。そうしないと無駄になるからだ。なぜならこの第一話はおそらく……。





 朝、いつもの時間にベッドで目覚めた詩乃は、パジャマのまま洗面所に向かった。


 …………


 いつも通りトーストとヨーグルトで食事を終えた詩乃は、シャワーとメイクを済ませた後、携帯を見た。通勤電車の時刻表とリンクしたスケジューラーが、出勤までに十分の余裕を表示する。


 詩乃は部屋の一面を覆う本棚の前に立った。しっとりとした木目の綺麗な樫の本棚は詩乃のお気に入りで、そこに色とりどりの背表紙が並ぶのを見ると心がウキウキする。

 詩乃は本棚に指を伸ばす。四段目だけは表紙を前に置かれている。ここは詩乃が現在特に重視する本のための特等席だ。

 詩乃は一冊のハードカバーを手に取った。美里七海著『冬の麦わら帽子』。有名作家の曲木賞を受賞した話題作だ。若い女性のみならず男性の間でも支持を広げている。今後図書館が獲得を目指すべき利用者層だ。

 図書館までの電車の中で読むためにそれをカバンに入れると、詩乃は玄関に向かった。




「…………うん。行動で詩乃が描けているな。アリスの詩乃だ」

「よかったです。これで第一話が出来たので、次は全体構成ですね」


 緊張の面持ちで採点を待っていたアリスが安堵を浮かべた。


「いや、ここまでの文章は全部カットして第一話は改めて考える方がいいな」

「ど、どういうことでしょうか⁉」


 安心していたアリスは唖然とした。


 確かにさっきの第一案からはすごく良くなった。簡略化された朝のルーチンの後に、詩乃というキャラクターを象徴するシーンがしっかりと描かれている。本棚で詩乃を表現するなんてすばらしい。改善具合に驚愕するほどだ。でも駄目だ。


「これは第一話じゃなくて第ゼロ話、あるいはマイナス一話だからだ」

「マイナス…………」


 アリスは肩を震わせた。青ざめた表情で「先ほどはゼロで、今度はマイナス。悪化しました」といっている。しまったまた言葉を間違った。


「さっき言ったもう一つの重要な問題なんだ。アリスがこの話でスタートさせたのはストーリーだ。もっと肝心なものがスタートしていない」

「第一話でストーリーが始まるのは当然ではないでしょうか?」

「そうだ。だが小説において一番大切なのは?」

「それはテーマです」

「今の話、テーマが始まっているか?」


 俺の言葉にアリスは目をぱちくりさせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る