第2話 シラバス
バーチャルルームにはこれまでなかった物体が設置されていた。丸テーブルの上にある円筒形ケースだ。ケース下には電動台がついているもので、中には巻物を読む姫君のアクリルフィギュアが納まっている。
九重女史が用意してくれたらしい。中身よりも高そうで恐縮する。
アクリルフィギュアの横に座る教え子は本格的な冬の装いになっていた。
少しゆったり袖の白いセーターと、しっとりとしたビロードのロングスカートの組み合わせ。アリスらしい上品にして温かみを感じさせるファッションだ。長い黒髪が白いセーターに映える。
戦国の姫君よりも架空の存在で、同時にそれ以上に美しい姿だ。そんな美人生徒が期待に目を輝かせてしがない教師を見る。
「今日から先生がどんなことを教えてくださるのか、とても楽しみです」
「そうだな、それをアリスが考えるのが今日の授業だ」
アリスは小さく首を傾げた。
「最初から意地悪ということでしょうか? もう少し説明をいただけた方が受け入れやすいです」
アリスは小さく手を打ってから問題発言をした。
説明したら意地悪を受け入れるというのはまずい。俺は内心焦りながら、説明をする。
「今日からはアリス自身が小説を書く。だが小説の書き方は人……書き手それぞれなんだ。だからどんな技術的アドバイスが必要なのかをアリス自身が考える必要がある」
「理解できました。先生らしい極めて論理的な理由でした」
アリスは納得したようにうなずく。俺の技術的指導は基本的に論理的で確固たる理由がある。もちろん今回もそうだ。
「私はまだ小説を書いたことがないので、どのような問題が生じうるのか完全には予測できません。ですが明確に分かる問題が一つあります」
「聞かせてくれ」
「はい。私が生成可能なテキスト量と比べて小説が著しく巨大であることです。人間がどうして十万字を越えるテキストデータを一貫して生成できるのか、私には全く理解が及ばないのです」
「なるほど。それは確かに重要なポイントだな。まあ人間の小説家だって長編小説を認識出来ているわけじゃないんだけどな」
「そうなのですか⁉」
アリスは大きく目を見張った。
俺が最初に書いたときはたった十万字が無限に見えた。書いても書いても終わりが見えない。ちなみに十万字はその時応募した新人賞のレギュレーションだ。アリスの場合は文字数の制限はないが、あの企画はおそらく長編のものだ。
それもアリス自身が考えている以上に長くなる可能性が高い。
「逆に言えばそれでも書けるようにする技術があるんだ。簡単に言えば扱える大きさ『話』という単位にすることだ。『毒と薬』でも一話ずつ考えて書いては投稿していっただろう」
「分割は有効な方法だと感じます。ですがそれらの『話』に一貫性を持たせて結合させ、最終的に一つの小説とすることはやはり困難が予想されます」
「それに関しては流儀が二つあってな。一つ目はまず全体を『構成』して、その構成に合わせて一話ずつ書いていくやり方。これは歴史小説の場合が分かりやすい」
「なるほど、歴史小説なら実際の年表が存在します」
「そうだ。前にも言ったが史実のイベントを自分の小説のテーマとコンセプトに結びつけるのは簡単じゃない。ただ企画と年表を突き合わせながら書ければ、アリスの言った問題に対する技術的答えになる。もちろんアリスの企画は歴史小説じゃないから、もっと抽象的な構造になるけどな」
「抽象的な構造……。起承転結や三幕構成でしょうか?」
「まさにそれだ。そう言えば最初の時は、小説の書き方の本をいくつも読んだって言っていたな」
「あの時のことはおっしゃらないでください。人間は忘れるのが得意なはずです」
アリスは顔を赤くすると、失礼なことを言った。
悪いが「技術と知識があれば小説を書ける」なんて暴言を小説家が忘れることは決してないぞ。とはいえこれは進歩だな。技術と知識の限界を知っていなければ、技術と知識を使いこなせない。
「もう一つの方法は、最初の一話を書いてその続きを書いてという具合に、一話ずつ積み上げていく方法だ。前者が工業製品の生産。後者が生き物を育てるのに近い。アリスとしてはやっぱり前者の方がやりやすいと感じるか?」
「その通りです。真理亜が殺人者になることはありませんから」
アリスは大きく頷いた。うん、完全に理解しているな。
「しかしそうすると『毒と薬』は毒にも薬にもならない小説になったぞ。真理亜が予定通り淡々と犯人を特定していくだけの小説でいいのか?」
「…………とても困難な問題です」
アリスは一転困った顔になる。
「もう一つ問題がある。どちらの方法にしても小説の最小単位が『話』であることを基盤にしている。アリスはこの『話』を一人で書いたことがない。『毒と薬』の時は真理亜のセリフだけだったからな」
「確かにそうです。小説は舞台上に複数のキャラクターが存在する複雑な文章です」
アリスは心細げな表情になった。この素直な感情表現、どこかの黒幕に見習わせたい。いや、奴が素直に感情を表現したらそれはそれで嫌だが。鳴滝との関係はシリコンバレー並みにドライがいい。
「実はこの三つの問題を総合的に解決する方法がある」
「本当ですか。流石先生です」
アリスはキラキラした目を俺に向けながら、胸の前で両手を合わせた。セーターの裾が萌え袖っぽくなっているのが凶悪だ。ここまでやってあざとさゼロ。チャンネルのファンがますます増えるわけだ。
「そんな大げさな話じゃない。これまでさんざん出てきた『サンプル話』だ。まずサンプル話として第一話を書く。そのサンプル話を起点にして全体の『構成』を考えてみる。そして第二話を書く。それを見て全体の構成を見直す。これを繰り返すわけだ」
「全体と部分を行き来するのですね。斬新な方法です。一番最初に教わったアジャイルと類似点があります」
「そうだな。これで『話』をアリス自身が生成することを学びつつ、小説の起点を決め、そこから全体の構成を作るという一石三鳥が可能だ。とりあえず四千字くらいを目標に第一話を書いてみるのはどうだ?」
「はい、その分量でしたら私にとっても十分把握可能な範囲です」
アリスは大きく頷いた。そして真面目な表情で口を開く。
「それで、何を書けばいいでしょうか?」
「…………ええっとだな。アリス」
「申し訳ありません。今のは冗談です。私自身が書くことを決めなければいけないことは承知しています。先生に教わる前の自分を思い出してみました」
アリスはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
この手の冗談が出てくるのはアリスの調子がいい証拠だ。これから予想される困難を考えるとこれくらいのスタートの方がいい。
「この小説は主人公である詩乃を中心に展開するので、第一話では詩乃の紹介を書くのが適切であると考えます。それを表現するために詩乃の通勤前、朝の様子を描くのはどうでしょうか」
アリスはすらすらと第一話の
これは典型的な失敗が見られるかもしれないな。俺は内心を隠して「じゃあ、それで行ってみよう」とアリスに告げた。
――――――――――――
【アリスの企画】
『主人公』
石里詩乃:二十五歳の女性。生まれた時から小説が好きで、小説に関する大量の知識をもつ。それを活かして社会に貢献しようと司書になった。一方、読書に集中しすぎたため、他人の心の機微をつかむのが苦手という欠点を持つ。
『舞台』
塩浜島図書館:新潟県の海辺の街の図書館。塩浜島という地名は埋め立てで陸続きになったため。戦国時代に甲斐の国に塩を送ったという伝承を持つ。地元唯一の図書館として小説を中心に多くの蔵書を誇る。
『コンセプト』
詩乃が問題を抱える来館者の相談に応じて小説を紹介、感想を通じたやり取りを繰り返す中、来館者の心の中にある望みを理解し、来訪者の心に響く小説を見つけ出す。
『テーマ』
小説の面白さは小説と読者の心の間に生まれる。
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