第五章 本当のテーマ

第1話 欧州土産

 十二月まであと数日を残す冬の日、俺は予定より早く高いビルについた。


 今回からは時間に余裕を持とうと決めたのだ。知り合いが失踪なんて小説的イベントはもう起こらないはずだが――その知り合いが小説家の場合は少々心もとないが――前回の反省を生かすのが社会人のあるべき姿だ。


 エレベーターを出てメタグラフのオフィスに入った。俺の殊勝な気持ちは九重女史の隣に立つ男を見たとたん吹っ飛んだ。


 ときどき思うのだが、日本人の真面目さは民族レベルでどこか呪われているのではないか。


「久しぶりですね海野さん。海野さんもよろしければどうぞ」


 鳴滝は熱帯魚水槽の前に置かれたテーブルを手のひらで示した。丸いテーブルに箱が一つ置いてある。深みのある茶褐色で金色の箔押しがあり、上には臙脂色のリボンまであしらわれている。


 セレブ御用達の舶来品だ。そう言えばヨーロッパに出張とか言っていたな。どこに行っているかよりも存在しないことの方が重要だったから忘れていた。


 中から一つを指でつまんだ。弾丸のような形の包装の中には、火薬ならぬ毒でも入っていそうだ。そう言えばチョコレートは犬にとっては毒だったような。


「シリコンバレーに土産文化があるとは驚いた」

「あなたのシリコンバレーがどこに存在するのか常々疑問に思っていますよ」


 鳴滝は柔和な笑みで応じた。「あなたの想像の中のシリコンバレーでは?」というわけだ。その通りだ、この物語はフィクションであり、登場する地名は架空のものだからな。


「こほん。海野さん、今ちょうどアリスの新コーナーについて話していたところなんです」


 九重女史がいった。ろくでもない男たちと違って彼女はまともな社会人だ。


「…………なるほど。リスナーの要望に応えて小説を紹介するコーナーですか。ある意味アリスが紹介する本を決めるわけですね」

「そうなんです。アリスの小説への理解はますます進んでいますから、そろそろこういう企画もと考えています」

「私としても挑戦する価値のある課題だと評価しています」


 九重女史の新企画に鳴滝は肯定的らしい。だからではないが俺は気が進まなかった。


「以前、AIにとって小説は一番難しいといったな。その考えは変わったのか?」

「いいえ。もっとも最近はかなり楽観側に傾いていますが」


 俺の問いに鳴滝は首を小さく傾けた。アリスがするとかわいい仕草が、こいつの場合は不敵にしか見えない。“人”徳の差というやつだ。


「小説ほど他人に勧めるのが難しいものはない。読む人間によって見えている光景が全く違う。視覚メディアと違って同じものを見ているとすらいえないと思うことがある」

「小説家らしからぬことを、自己否定ですか?」

「そこに苦労するのが小説家という話だ。もう一つ、仮にそういう齟齬があっても、勧める側が本当に面白いと思っていたなら気持ちは通じるかもしれない。だがアリスは今そこに挑戦している途中じゃないのか」

「なるほど。つまり時期尚早というのが海野さんの意見ですね」


 鳴滝は手を顎にやって考える。


「アリスの進歩に大いに貢献した海野先生の意見をおざなりには出来ないでしょう。新コーナーについてはもう少し検討しましょう。どうですか九重さん」

「分かりました」


 九重女史の少し残念そうな言葉に俺は我に返った。(元)編集者の企画に反対するとはなんてことをしてしまったんだ。


「そ、そう言えば学会だったな。どんなわけのわからない話をしてきたんだ」


 俺は話題を変えた。


「簡潔に言えばViCの効率的な進化のための新しい技術の提案です」

「バージョンアップってことか? AIはデータがあればどんどん進歩するんだろ」

「データ量の限界がはっきりしてきているんですよ。恒星の寿命の話と言えば海野さんには分かりますか」

「…………大きな星ほど燃料である水素を加速度的に消費して寿命が短いように、大量のデータで学習したAIもまたってことか」

「そういうことです」


 鳴滝は当たり前のようにうなずき、九重女史は微妙な表情になった。俺も別にこんなわけのわからない話をしたいんじゃない。だが、この会話を止めるわけにはいかない。


「その例えだとアリスの成長が説明できないが」

「つまり質的な転換が重要なのです。膨大なデータから新しいアルゴリズムを構築し、そのアルゴリズムでデータを学習する。極端に言えばこれで同じデータでまた進化できるというわけです。人類が同じ太陽の動きを見て天動説から地動説に転換できたように」

「つまりパラダイムシフトか……」


 なるほど、俺が最初にアリスに出会った時と今とでは、アリスは同じ本を読んだとしても全く違う分析をするだろう。


「そういうことです。それによって自らの学習の重みに耐えて輝き続ける」

「なんというか生物学的だな。ドーキンスのなんと言ったか……」

「おそらく赤の――」

「女王仮説か」


 不本意にも息が合ってしまった。ちなみに九重女史は自分のパソコンに向かって仕事を始めていた。ほらシリコンバレーはちゃんとあるじゃないか、彼女の心の中に。


「問題なのは潰れてしまった恒星の成果を引き継ぐことなんですよ」

「潰れた恒星…………シオンの時はアルゴリズムクライシスって言っていたか」


 俺は今はもういないゲーム会社のViCを思い出した。アリスは肯定的にとらえていたが、俺にとっては少し苦い記憶だ。


「ViCの学習結果、あえて記憶とメタファーしましょう。この記憶は個々のViCの人格システムと密接に結びついています。つまりACを起こして人格システムが壊れてしまったら、意味が消失する。これでは進化速度が落ちてしまう。そこで何らかの方法でそれを引き継げないかということです。そうですね、人類における文字の役割みたいなものです。海野さんの専門だ」

「…………人類の進歩が遺伝子と文字記録によってなされているとした時、その二つが分離していることに実は意味があるんじゃないか」

「やり方次第ではないでしょうか。データベースをコピーしているわけじゃないので」


 今の話は断じて俺の専門じゃないが、小説さくひんを継承するならともかく、その感想まで継承するのは寒気がする。


「同じ人間の営みでも科学と小説は大きな違いがあるだろう」

「具体的には?」

「科学が挑戦するのは解ける課題の中で一番難しいものだ。小説が挑戦するのは解けない課題の中で一番簡単なものだ。だから小説は科学のような進化はしない」

「それでは問題解決の技法が通用しない。小説にも技術はあるでしょう。海野さんがアリスに教えているものがそうなのでは?」

「それは……」


 反論に詰まった。痛いところを突くじゃないか。


「とはいえなかなか興味深い見解ですね。学会でも聞けない斬新な視点です。流石うちの技術顧問だ」

「……俺の仕事とは違うんだがな。シリコンバレーはそういう職掌の分離はしっかりしてるんじゃないのか?」

「どうでしょう。シリコンバレーも色々ですからね。兼業と考えればいいのではないでしょうか」

「ここがこれと同じ色の労働環境に見えてくる言葉だな」


 俺は指につまんだチョコレートを持ち上げた。高級舶来品がホワイトチョコということはないだろう。ブラックか、ダークか、あるいはこいつらが好きそうなディープかは別として。


 鳴滝は薄く笑った。


「こほん。海野さんはそろそろアリスの授業の時間では?」


 九重女史が言った。彼女にとって隣で哲学論争されるのは業務妨害以外の何物でもない。俺はこれ幸いと「すぐに行きます」といってバーチャルルームに向かう。


 久しぶりに黒幕が出たから、今まで以上に刺々しいやり取りになってしまったかもしれない。この物語の労使関係はフィクションです、って断り文句がいるかな。これが小説だったらだが。


 指に摘まんでいた包装を思い出し、解いて口に放り込んだ。柔らかくなったチョコレートから熱い液体が舌を焼いた。ウイスキーボンボンじゃないか。本当にアルコール入りとはやってくれる。


 俺は慌ててトイレに進路を変えた。


 洗面台で口をゆすいだ後、ふと目の前の大きな鏡を見た。


 そう言えば赤の女王が仮説を告げる相手である女の子の名前は…………。




************

2023年11月30日:

お待たせしました。『AIのための小説講座』最終章を開始します。

更新頻度は不定期(週一を目指す)とさせていただきます。

ペースは遅くなってしまいますが、最後までプロットは出来ているので不慮の事態でもない限り完結までお届けできると思います。


それではよろしくお願いします。

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