第9話 企画の完成
「本当に助かりました」
喫茶店の一番奥にあるテーブルで、イケメン編集者が深く頭を下げた。彼の手には咲季が提出した企画がある。ちなみに俺の手にあるのは経費精算のための領収書だ。綾野氏としては採算は取れたということだろう。
「第一稿の締め切りを過ぎて振出しですよね。スケジュールは大変では」
「良い原稿が出来上がるのなら日程を調節するのが仕事ですから」
なんて眩しい。編集者の鏡だな。本当にお品書きのヒーローを見てるようだ。
ちなみにこれは手放しの賞賛ではない。作家の賞賛など編集者にとって何の価値もないというのもあるが、大半の作家はこれを言ってもらえる売れっ子の割を食うからだ。連絡事項が忘れられるとか、メールの返事が届かないとか。その他いろいろ。
出版社にとって売れっ子と普通の作家の経済価値は数倍ではなく数百倍ある。作家なんて弱い立場だという黒須の言葉は統計的には正しい。そう言えば本格ミステリコンペを開催したTFxは『百倍の仕事ができる人材に十倍の報酬を支払い、十倍の仕事には退職金を支払う』という社是を掲げてるんだったか。
本場シリコンバレーのすさまじさよ。いや、俺の雇い主のシリコンバレー風経営者も後半に関しては同じことを言っていたような。
「……そういえばどんな企画になったんです?」
「えっ、知らないんですか?」
「ええ、四日目だったかな。青木ヶ原樹海で突然携帯を打ち出したのを見たくらいです」
実際には旅館でキーボードを打ってる姿も見たが、次の瞬間にはアルハラ女子に化けていた。綾野氏は少し考えた後、手のコピー用紙を折って、下半分だけを俺に見せた。
そこにはたった一段落の文章が書かれていた。俺は息を止めた。
赤墨色の溶岩石の上を山海の旬味が彩っていた。漆黒の熱に焼かれるのは岩塩をまぶした肉、魚、そして野菜の数々だ。白藤色の煙と共に馥郁たる香りが舞い上がる。朝子は作法を無視してまず紅樺色に焼きあがった和牛に漆箸を伸ばした。
溶岩石で肉と魚介、そして野菜が焼かれているだけの描写だ。だが、油絵で描かれたような濃い背景に鮮血の滲む牛肉から繊細な白身のヤマメ、そして色とりどりの野菜が水彩画のように色鮮に並ぶ姿が脳裏に浮かんだ。
特に赤熱を纏う溶岩石の描写だ。淡い色合いの描写が多かった咲季には珍しい黒系統。油絵の具を叩きつけたような岩肌の描写が、彩鮮やかな食材を浮き上がらせる。白藤、紅樺といった咲季がよく使う和色がいつもよりも引き締まった存在感で脳裏に飛び込んでくる。
スランプからの復活どころかパワーアップしている。若い才能っていうのは、まさに宇宙人だ。尻尾は生えてないだろうけど。
…………というか、まてよ。そう言えば俺が見つけた時に、咲季は前日の夕食が溶岩焼きだと自慢していなかったか。これでは俺が出版社の金で甲府観光をしただけに見えてしまう……。
「改めて思ったんですが海野さんは本当に松岩ですね。最初に会った時ももしかしたらって思ったんですが」
「はっ? 松岩って……『お品書きの』あの栄養士の松岩、ですか?」
背中の冷や汗は編集者の暴言により霧散した。綾野氏は笑顔で首肯する。
松岩はヒロイン朝子の行く先々に顔を出しては、料理に細かいケチをつける嫌味な男だ。俺は流石にあんなひどい
「それでは、私は失礼します。この度は本当にありがとうございました」
綾野は注文票を手にすると、もう一度礼を言って出ていった。
俺は内心の憤慨をため息にしてテーブルに吐き出した。まあ綾野氏もいっぱいいっぱいなんだ。咲季のやらかしが元だしな。とにかくこれで俺も本来の仕事にもどれる。次のアリスの授業は明日。久しぶりにメタグラフで授業だ。
昨日のリモート授業は途中であんなことになってしまったから、アリスはコンセプトにまだ苦戦しているだろう。どうやってアドバイスすべきか。
俺は地下鉄に向かいながら次の授業プランを考え始めた。
◇ ◇ ◇
白銀の糸の上を様々な色の光点が移動する。
浮遊するアリスの前には銀糸と光点が作り出す二つの銀河が表示されていた。『主人公:石里詩乃』『舞台:塩浜島図書館』。アリスの小説の企画を現す情報ネットワークだ。
『主人公:詩乃』は小説を好み、毎日多くの小説を読んでいる。
小説について多量の知識を持っている。
その知識を社会のために役立てたいと思って司書になった。
一方、小説の世界に没頭したため、他人の心を推し量るのが苦手。
もしかしたら推理小説は苦手かもしれない。でも、推理小説は人気のジャンルだから、知らないのは不自然だ。知識として知ってはいるが、あえて勧めないのだろうか。でも、来館者に求められたら答えないといけない?
渦の中から様々な矛盾する
それはアリスが体得した新しい
もう一つの渦『舞台:塩浜島図書館』。建物の構造から、蔵書の数まで定義されている。こちらは静的なデータであり、扱いやすい。だけどそれだけでは足りない。この
シオンにとってゲームの世界がそうだったように。そう考えて、アリスは自分の周囲を図書館に変える。その途端、アイデアが浮かんだ。
詩乃が小説の紹介ポップを作るのはどうだろうか。空間に本棚が置かれ、いくつかの小説が表向きに展示され、そこにポップの文字が生成された。
二つの渦が結びつく。結びつくことで情報が循環して安定する。可能性が開かれ、データが世界になっていく。
ここまでは順調だ。
次はこの二つの渦から、もう一つの渦を形成する。主人公と舞台という線を三角形という面に転換する。それがアリスが己に課すタスクだ。
図書館の中で詩乃が動き回る。本棚から本を取り出す。ページをめくる。いつまでたっても詩乃は同じこと繰り返す。一人図書館にいて本だけを読んでいる詩乃。これでは何も始まらない。
対処方法は教わっている。ここに小さな『女の子』が来るのだ。女の子は問題を抱えていて、詩乃はそれを小説の紹介を通じて解決する。そこまできちんと定義されている。
主体はあくまで詩乃だ。
この女の子の正体は詩乃が解決するべき問題だ。問題解決はアリスにとって本質的な概念だ。本来は解決した答えを提示すればいいのだが、今回は解決の課程も必要というだけ。解決するべき問題を自分で決めるのだから、比較的簡単なタスクのはずだ。
なのに、何度もここで止まる。
何時まで経っても、女の子は無言で
授業で先生に話していた時は明確に見えた、改めてみると女の子は輪郭がぼやけている。自分の作り出したキャラクターが与えた役割を果たさない。それは不当なことだとアリスは感じる。
この『女の子』は詩乃を真理亜にしないために作り上げた脇役だ。主人公に比べれば重要度は低い。どうして思い通りに動いてくれないのだろうか。これでは詩乃は何もできない。
アリスの心に焦りが広がっていく。このままではリソースが尽きる。
コンセプトが出来なければ、テーマという最終目標には達成できない。それは「アリスの中にはアリスも認識していないアリスのテーマがある」といった先生の信頼に背くことになる。
先生は時間をかけていいといってくれている。次の授業で質問すればいい。バーチャルルームで向かい合って教えてもらえればきっとこれまでのように…………。
でも、だったらどうして先生は別の……の所にいるの?
突如生じた非生産的な思考。アリスは首を振った。
アリスは自分の中にある小説の
ダイヤモンドのような美しい
自分は期待通りの、いや期待を超える学習を得ていると改めて認識する。人間である先生が、自分を生徒として寄り添ってくれた何よりの証明だと彼女は認識する。
それはアリスにとってとても価値のあることなのだ。いやそれ以上だろうか、もしもここまで学習が進んでいなければ今頃彼女の存在は……。
だからこそコンセプトは生成できなければならない。コンセプトが生成できればテーマも得られるはず。先生の言っている私の中のテーマにたどり着けるはずだ。そうすれば、次の世界が開かれるのだ。これまでのように。
前回の授業、先生は最後に何かを教えようとしたことをアリスは思い出した。だが、想起された映像には極めて不適切な要素が含まれている。アリスは反射的に記憶を打ち消した。
もしも、先生の期待するテーマが自分の中にはなかったら? その不安が想起される。テーマがなければ小説は書けない。それはつまり……。
その時、突然一つの考えが形成された。目の前のシンメトリーを改めて見直す。
コンセプトはテーマの裏返しだ。ならばコンセプトからテーマに到達するのではなく、テーマからコンセプトを作り出せばいいのではないか。
テーマを生み出すことは困難でも、決めることならもう出来る。自分はこれほど小説を理解できているのだから。
そう、正しいテーマ、あるべきテーマ、だれもが望み納得する、そんなテーマを定義する。
次の瞬間、虚空にこれまでとは全く独立の情報の渦が発生した。いや、それは渦というほど複雑なものではない。彼女が生み出された目的であり、果たすべき役割。それを詩乃に当てはめてやりさえすれば……。
現れた答えは満足いくものだった。アリスはそれに手を伸ばそうとした。その時、ぼやけた輪郭だった小さな女の子の瞳がアリスを見た。
(本当にこれがただしいの?)
小さな声が聞こえてきた気がした。アリスは首を振り、テーマに手を伸ばす。自分は何も間違ったことはしていない。この答えは明らかに正しい。
それに……。
「このままじゃとられちゃう。私の先生なのに」
そのとき漏れた自分の言葉をアリスは認識しなかった。
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