第8話 遠足と学級崩壊? (2/2)
――詩乃が女の子とどんな問題解決をするのかについて、多くのパターンでシミュレーションしてみました。その結果、コンセプトどころか後退してしまいました。昨日先生にお約束しておきながら――
開口一番アリスが言った。まるで懺悔をしているように沈んだ顔だ。
「昨日言った通り、ここで苦戦するのは想定の範囲内だ。アリスがどう考えた結果そうなったのか教えてくれ」
俺は努めて落ち着いた声で促す。
――シミュレーションを繰り返した結果、詩乃の設定に調整が必要になりました。詩乃の欠点である人の心の機微に疎いという理由が、小説が好きで小説からの情報を偏重した結果、ではないかという推測を無視できなくなったのです――
「なるほど、つまり小説ばかり読んでいたから他人とのコミュニケーションは苦手になったと」
――そうなのです。主人公にとって重要な長所と短所が関わる変更なので、それまでのコンセプトのためのシミュレーション結果に再思考が必要になってしまいました――
本当に優秀な生徒だ。自分が何がわかっていないのかをちゃんと分析して、しかも分かりやすく言語化する。教える側にとっては理想的だな。
「……何が上手く行ってないのが分からないな」
『主人公:詩乃』の設定に頷きながら俺は言った。むしろ前進している。単に並んでいただけの長所と欠点が、ちゃんと表裏の関係になっている。
――はい。良いコンセプトを提出するとお約束したにもかかわらず…………――
「いや、俺が言いたかったのは上手く行ってるようにように見えるってことだ」
慌てて付け加える。
――ですが私はコンセプトをきちんと定義して、テーマにつなげなければなりません。主人公の設定にもどってしまっては後退です――
「そうでもない、アリスは主人公である詩乃がどう動くかを考えた結果、長所と短所が表裏の関係だと気が付いたんだろ。コンセプトを考えようとして主人公の設定が深堀されるのは当然なんだ」
――どういうことで…………
ポンッ
――先生! 今の音はいったい?――
俺の背後で突然発生した音にアリスが驚いた。あいつ何をやっているんだ。締め切りが近いどころか、ぶっちぎってるんだが。
「気にしなくていい。こちらのことだ。ええっとだな。俺が見るにアリスは主人公の設定にもどってしまったんじゃなくて、主人公の詩乃の設定を深化させたんだ。これはテーマの探索ともいえる」
主人公 → コンセプト → (テーマ) → 主人公 → ……。これがアリスのはまっているループではないだろうか。アリスが自らこのループに飛び込んだなら、それは間違いなく成長だ。
「この企画の目的はアリスの中のテーマの探索だ。順番通り進めていくこと自体に意味はない。ぐるぐる回りながらテーマに近づいていくのはありだってことだな」
――そうなのでしょうか。いえ、これまでの教えから理解はできます。ですが、もう一つ可能性も考えられます。先生の期待するようなテーマが私の中に存在しないことが原因だったら……――
「俺の期待はともかく、もちろん絶対にあると保証してやることはできないが」
本音を言えば、アリスの企画にはもうテーマやコンセプトが生まれ始めているのではと思っている。見えない中心がなければ、その周りをループするなんてできないだろう。宇宙物理学のダークマターの説明をするつもりはないが。
テーマは自分という世界の認識のぎりぎりの境界だ。極端なことを言えば小説を書き終えるまでその本当の姿は見えないことすらある。それが小説家は答えを持っていないということだ。
そこにアリスが向かっているとしたら、ここで俺は絶対に下手なことは言えない。テーマの生まれ方は小説家ごとに違うし、AIであるアリスに適したやり方なのかは分からないのだからなおさらだ。
ただ、アリスは苦戦に自信を失っている。小説の企画を立てるのは初めての経験で、先が見えないのは不安だろう。
俺に出来るアドバイスがあるとしたら……。
「そうだな図書館にやってくるこの女の子の――」
「せんぱーい。ピコピコばっかりずるいです」
突然背後からアルコールの香りと柔らかい弾力が襲い掛かってきた。
「ちょ、咲季、いつの間に飲んでるんだ。お前さっきまで小説書いてただろう!?」
実を言えば俺が今いるのは咲季の旅館だ。樹海から無事生還したときにはすでに日が落ちていた。ホテルにもどっていては遅刻してしまうため、ここでノートパソコンを広げさせてもらったのだ。咲季は別のテーブルで原稿を書いているはずだった。実際、授業を始めた時にはキーボードが鳴っていた。
「ワインは小説に必要なんですよ。つまり飲むのも仕事です。いい商売ですよね。っていうか、なんでピコピコには優しい教え方なんですか。私の時はもっと意地悪な言い方だったのに」
「そりゃアリスはお前と違って真面目で素直で、っておい恰好を考えろ」
咲季が後ろから体重をかけてきた。いつの間にか浴衣に着替えている。胸元が乱れていて目のやり場に困る。
「先輩はもう正真正銘、私の師匠なんですよ。昨日約束した次の日にもう別の女ってひどくないですか」
「それはお前が必要になったらって。と、とにかくこっちは仕事中なんだ。お前も原稿にもどれ。今日中に一話書いて見せるって言ってただろう」
「仕事と私どっちが大切なんですか」
「仕事に決まってるだろ。俺も、そしてお前もだ!!」
咲季のアルコールで紅潮した頬が熱い。よく見ると胸元だけでなく足元もはだけている。実に目に毒だ。小説のためなら仕方がないかって思っちゃったら……。
って、流されてどうする。俺たちは官能小説ジャンルの作家じゃない。というか、俺の方は時間当たりで報酬が出る仕事だ。売れっ子作家みたいな横暴とは無縁だ。
「アリスすまん。ええっとだな、この女の子から詩乃を見た場合の……………………アリス?」
――――
咲季を引きはがして何とかパソコンに向き直った。俺の眼に入ったのは黒一色の枠とそこに描かれた「フィルター機能によりどうの」という機械的な説明だった。生徒の姿は画面から消えている。
何もしていないのに壊れた!?
俺は慌てて九重女史に電話をした。
「海野さんお疲れ様です。えっ、ソフトの異常ですか。…………海野さんのIDがBANされています。理由は倫理フィルター抵触? ………………海野さん一体何をやったんですか。まさか授業中にいかがわしい動画を間違えてクリックしたとか。そういうやらかしってあるみたいですし」
「仕事用のパソコンにそんなもの入れてるわけないでしょう」
冷たくなっていく九重女史の声。俺は強く否定した。ちなみにこれはプライベートのパソコンには入っているという正反対の情報を強調するためのテクニックではない。
「先輩、ほらほら。甲府最後の夜を楽しみましょうよ。夜はまだ長いんですから」
「咲季。こっちはお前のせいでだな……。おい、だからちゃんと服を……」
衣擦れの音と共に再び覆いかぶさってきた咲季。ワインの芳香が混じった若い女性の匂いがみちる。視覚だけじゃなく、聴覚も触覚から嗅覚まで包囲されている。小説の描写としてなら臨場感ばっちりだ。ジャンルがやっぱり官能小説だけど。
って、これが原因じゃないか。
電話の向こうから深いため息が聞こえてきた。
「フィルターは明日までに解いておきます。ごゆっくり」
「えっ、ちょっと――」
俺の答えも待たずに電話が切れた。
「新婚旅行は今日行った樹海にしましょうねぇ♡」
「お前のアルコール頭にどんなストーリーが映っているか知らんが、どう考えても縁起が悪い。あそこはだな…………っておい」
新婚旅行じゃなくて心中だ、といおうとした。だが咲季は俺にもたれかかったままぐったりと力を抜く。すうすうと小さな寝息が聞こえる。咲季の手から畳に転がった瓶を見るとほとんど空だ。
散々引っ掻き回した挙句に酔っぱらって寝落ちだと。売れっ子作家っていうのはなんていい商売なんだ。
俺はため息をつくとノートパソコンを閉じた。咲季を布団に運ぶ。吐いても大丈夫のように横向きに寝かせて、布団をかける。穏やかそうな顔で寝やがって。まあ、明日は地獄かもしれないが。
そういえばこいつに小説家の先輩として一つ教え損ねた。青木ヶ原樹海のことじゃない。
台詞にハートマークは情緒を台無しにすることがあるから使用は慎重にだ。
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