第8話 遠足と学級崩壊? (1/2)
「今日は行くところが決まってる?」
「昨夜ぱっと思いついたんです。先輩の手の上で転がされたのは仕方がないにしても、最後までそれだと話が締まらないって。一応自立した女性ってことになってますからね」
旅館から出てきた咲季はわけのわからないことを言った。
自立した女性は取引先に連絡なしに逃げたりしないと思うぞ。お前の社会人として立派なところは納税額くらいだが?
それはともかくなんというか今日のこいつはアウトドア系のファッションだ。暖かそうなピンクのフリースジャケットを上に着て、下はベージュのキュロットスカートに黒のレギンスを組み合わせている。背中には空色のリュックサックだ。
いったいどこに連れていかれるんだか。
…………
一時間後、俺たちは荒涼とした景色の中にいた。日本に残る数少ない原生林として国の天然記念物であり、世界遺産『富士山―信仰の対象と芸術の源泉』に含まれる樹海だ。広葉樹と針葉樹が混在する光景は、確かに一見の価値はある。
別の季節ならだが。
初冬の青木ヶ原樹海は、灰色と茶色の荒涼とした雰囲気が漂っている。不謹慎を承知でいえば自殺の名所としてはオンシーズンだ。ちなみに青木ヶ原樹海が自殺の名所であることには、小説がかかわっている。松本清張の代表作の一つ『波の塔』がそのイメージの確立に一役買ったのだ。
これを『芸術の源泉』に含むのは縁起でもない話だけどな。
そう言えば、こいつはさっき最後って言ったよな。まさか……。
前を歩く咲季を見る。俺の心配とは正反対の軽やかな足取りだ。まあ、俺たちが今歩いているのは
…………
小説家っぽいことを考えていられたのは最初だけだった。俺は深刻な体力不足にあえいでいる。前を行く咲季はまだまだ元気いっぱいだ。同じ職業なのにずるい。
「おーい、そろそろ休憩しないか」
「ええっ、もうちょっと先の方が明るくて…………。まあ仕方ないですね。じゃあそろそろお昼にしますか」
咲季は周囲を見渡してから、近くの倒木に向かう。リュックからビニールシートを取り出すと、朽木の上に敷いた。ペットボトルのミネラルウォーターとバスケットが近くの切り株の上に置かれた。
俺は咲季と並んで倒木に腰かけた。天然のテーブルに置かれたバスケットが開かれると、中には海苔で巻かれたおにぎりが入っていた。しっとりとした海苔の質感と微妙に大きさと形が違うさまは、人間の手で握られたもののようだ。
ちなみに俺はおにぎりの海苔はパリパリではなくしっとり派である。
「かわいい女の子の手作りですよ、文字通りの」
「どうせ旅館に頼んだんだろ」
「違います。厨房を借りたんです。まあ、卵焼きは仕出しですけど」
咲季はどや顔で返した。端境期の貴重な客とはいえやりたい放題だな。旅館の人ご愁傷様。
「材料を分けてもらって隅で握っただけです。実家も旅館なんでどの季節のどの時間が修羅場とか、そこら辺はちゃんと分かってますから」
咲季は「まあ、実家のほうは古さだけが自慢ですけど」と付け加えた。老舗旅館の娘というのは初めて知った。食べ方とかきれいなのはそこら辺か。生まれ育った環境といい、視覚感覚といい、なるほど自分のすべてを小説に生かしているわけか。
小説家は人生の切り売りというが、確かに出し尽くしたらって心配になるかもな。傍から見たら旅と食事なんて、ネタの宝庫でうらやましいんだが、本人の中にあるものは限られるからな。
とはいえ今の俺が恐れるべきは咲季の将来よりも、目の前のおにぎりだ。グルメ作家が料理上手とは限らない。ミステリ作家が人殺しを得意としているわけじゃないように。おにぎりを失敗するなんてそれこそ小説かマンガのキャラクターだが、俺の設定ではこいつはカップ麺にお湯を注ぐのが得意なタイプだ。
恐る恐る三角形の先をかみちぎった。
「……おっ、海苔と米だけでうまい」
「新潟産の最高級コシヒカリですから。具も逸品ですよ」
甲斐を上杉謙信ゆかりの地だと誤解してる人間らしいことを言う咲季。俺は今度こそ思いっきりかぶりつく。コリコリとした食感と甘辛い醤油の味、そして深い滋味が口の中に広がった。米にぴったりなのに高級感のあるこの味は……。
「中身は煮貝です」
なるほどアワビだ。そう言えば海がない甲斐では海産物の保存食が発展したと聞いたことがある。まあ、武田信玄は晩年駿河を手に入れたんだが。
「どうです。こんな料理上手な奥さんが欲しくないですか?」
「なんというか男の料理って感じなんだが? このおにぎり一ついくらだ」
浪費家の妻を養える甲斐性はないんだよ。まあ、こいつの場合夫を養えるわけだが……。
「そう言えばなんでここなんだ?」
ペットボトルの水でのどを潤した俺は話を変えた。ちなみに富士山麓の天然水といううたい文句の水も美味いが、当地でペットボトルで飲むと残念に感じるのは皮肉だ。
「だからなんとなくの思い付きですから。そうですね、こういう大自然の中だったらどれだけひねくれた人間でも多少は素直になるかなって、そんな感じです」
「さっぱり意味が解らん」
「パンフレットでくじ引きする先輩よりはましでしょう」
あれイカサマだから。小説家が導入を運任せで決めるわけないだろう。いかにも偶然って風を装いながら、実際は計算しつくしたシーンを用意するんだ。探偵の旅行先でことごとく殺人事件が起こるようにな。
「まあ、そこら辺は次の本が出来てからのお楽しみですよ。おっと、取材取材」
咲季は一息に飲み干したペットボトルをリュックサックに放り込むと、フリースから携帯を取り出した。
周囲の景色だけでなく、なぜか二つ目のおにぎりを食べる俺にもシャッターを切る。そして、しばらく考えた後、うん、と頷いて指をいきおいよく動かし始めた。最後にポンっと音が出そうな勢いで液晶をタップしてから携帯をしまった。取材とかいっておきながら、五分もたっていないぞ。
「何をしてたんだ?」
「新しい企画を担当さんに送ったんですよ。前に出したのは没にするんで」
咲季はあっけらかんと言った。
まあ、それが通るんだろうなこいつの場合。しかし、新しい企画って二、三分しか掛けてないだろう。前の企画はあれだけ分厚かったのに。
ああ、つまりはそういうことか。
たった三日、いや一週間で復活しやがって、これだからセンスがある人間は困るんだよな。“企画”外ってわけだ。こいつに俺が教えられることはやはりないな。
すっかり吹っ切れた表情の咲季を見て、俺は改めてそう思った。
「さあ先輩、食事が終わったんだから行きましょう。この先にコウモリ穴って名所があるらしいですよ」
「ちょっとまて、よくわからないが企画は送ったんだろ。俺の仕事は終わりで、もう帰ってもいいんじゃないのか」
「仕事じゃなくて観光なんでしょ。そもそも仕事じゃないことも仕事だと言い張れるのがこの商売のいいところじゃないですか。これで全部経費に出来るんだからもったいない」
さわやかな笑顔でげすいことを言って咲季が歩き始める。あんまり会計士さんに無茶振りするなよ。まあ、作家の経費なんて大体たかが知れていて、こいつみたいな売れっ子は売り上げのほとんどが利益に計上される。つまり納税額は大分大きいんだろうけど。
なんか目の前のじゃじゃ馬が立派な社会人に見えてきた。
「ほら先輩。行きますよ」
「分かったよ」
俺は切り株に同化しそうな腰を無理やり持ち上げた。
…………
夕方、俺は酷使された足を厚い座布団に沈めた。広いテーブルにノートパソコンを開いて、会議ソフトをオンにした。画面に現れたアリスはきょろきょろと左右を見たあと、首を傾げた。背景が違うことに気が付いたようだ。小説の情景描写と違って特に意味はないので気にしないで欲しい。
「授業を開始しよう」
俺は背後のキーボードの音を意識から追い出して、画面中のアリスにいった。
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